2015年12月23日水曜日

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》 講演会   (1988年10月3日)

カウンセラー養成講座 講演会   (1988年10月3日)                           

  「お母さんは恐いの?」子どもに聞きます。「正座をさせられる」一種の体罰です。「お母さんに恐くしないように頼んであげようか?」「頼んであげましたよ」 目の前でお母さんに頼みました。「私は子育ての専門家です」と話しました。「子どもがいやだと思うことを取ってあげることは親切であり、それを愛といいます。してほしいことをしてやり、してほしくないことをしない。こういうことを愛と感ずるのです。子どものニーズを満たしてやることです。」
  「責められているのをゆるす。それを寛容といいます。聖書ではこの二つを愛と定義しています。学問的にいうと相手の存在を肯定して幸せを願う、これを愛といいます」 お母さんは私が子育ての専門家と聞いて本気に聞いて「ハイ」と言いました。そのとき子どもはもう正座をさせられないだろうと嬉しい顔をしました。
その子どもは席を立って席をゆずりました。五歳くらいの子どもです。自分は座りたいのにゆずったことが分かります。五歳でも自分が良いことをしたことが分かります。それが幼児の教育です。今から教育をしてやる、と改めて思わなくてもそういうチャンスはいくらでもころがっています。やらないのはやる気がない人です。よい子とは勉強もよくやりスポーツもでき、思いやりがあり気持ちが優しい。親はみなそういう子になってほしいと願っています。
私の子どもは皆気立てが良いと、皆さんが言ってくださいました。だから私は人が言うのだから良い子なのだろうと思うのです。担任の先生は中学でも高校でも、待ち構えているように「どうすればあの子のようになるのでしょう」と私の子どものことで聞かれました。表彰もされました。そういうように育てるやりかたと、親を困らせる子を直すのとは違うのでしょうか。全く同じ原理です。私の家の子はみなよい子に育ちましたが、だれもが素晴らしい目を見張るような子になれるのです。どういうふうに育てるとそういう素晴らしい子ができてくるか。私はそれを専門職として始めました。40年前に書いた私の本は今でも生命を持っています。京大の正木教授が褒めて下さり、末川博博士は我が家の書棚は、『キュリー夫人伝』と伊藤先生の本だけであると言われました。私の今の理論はそこに書かれている原理とそれからの発展です。はっきりと鮮明になったのが進歩したところです。大まかに漠然としていたのが、今ははっきりと理論が立ちました。一口に言うと子どもをかわいがって育てる。愛の問題ただ一点です。難しくなった子どもを愛してやれば直る。最近非常にはっきりとしてきました。子どもを愛する、愛さないといっても質と量において存在します。二つに分かれるのではありません。ありとあらゆる存在するものはその線上にあります。差があるのです。子どもは愛されて育つと気立ても良いし頭も良くなる。頭が良くなると生れつきかと思いますがそうでないことが分かりました。変わっていくものなのです。
利根川博士が人間の遺伝子は変わるという、驚くべき画期的な事実を発見されました。どういう条件で変わるか今後の学問の課題です。子どもの気立て、頭の良さは愛によって変わると確信していました。頭が悪い、と言われていた子どもがクラスのトッブに変わる、どこの高校にも行けないような子が検定にパスした。奇跡のようなことは幾つもあります。自転車やオートバイを黙って使う子がいた。窃盗です。その子がその年に国立大学の心理学科に入りました。親が相談に来たような子でした。そのような例は一杯あります。脳細胞が条件によって変わるのではないか。利根川博士はそれを科学的に実証しました。神様がお働きになるときそういうことが起こります。創造主、全能、無から有をお作りになる方。その子が愛を受けると創造主の力が及んで変えられるのではないでしょうか。愛が働くとき石がパンに変わるのではないでしょうか。
本当は叱らなくてはならないことをゆるしてくことを愛といいます。子どもが良くないことをしているとき、叱らずにゆるしていくときそこに愛が創造されます。ゆるす愛、罪の増すところに恵も増す。罪がゆるされるとき愛という恵みが。暗黒があるから光があります。栄光があります。人間の罪をゆるすときそこに愛という現象が生まれます。それがなければ愛という現象を見ません。人間はなぜこのように罪を犯すように創造されたのでしょうか、なぜか分かるような知恵はありません。神様だけがご存じです。そういう暗黒の罪をゆるし、神の愛という光り輝く現象を神様はお作りになっています。罪がゆるされたという非常な喜びで光り輝く、ゆるされた美しい顔になります。その人の中に愛が生まれて、ゆるされたものは人をゆるします。悲しむものは幸いです。慰め、ゆるされるのです。愛という価値が創造されるのです。本当に創造主は不思議なことをされます。
 「 子どもを愛して育てると良い子になる」。というと「子どもを愛さない親があるでしょうか」、という疑問が出てきます。いくらでもあります。見分けは簡単です。正座させるような親、とっちめて責める。叱って育てた親はみな愛に欠けた親です。そういう親に育てられた子どもは気の毒です。宿命です。子どもは親を選べない。挫折した子はみなのろってやけになります。家庭内暴力をします。仕返しです。子どもを愛するようになるとみな直っていきます。そこに救いがあります。非常に簡単です。愛ということに関係がある。神様は非常に簡単な原理を作られたのに人間がみな難しくしているのです。そういう話はいつか聞いたことがあるような気がするが、そこに止まらないで、あちこちと色々なところへ歩き廻り聞き、相談し、気持ちが定まらない人がいます。
  環境とは子どものまわりにいるお父さんお母さんです。「私はどのくらい子どもをかわいがってきたか分かりません。少し大きくなると子どもというものは親を泣かせます。」愛してきたのに。そうなれば心理学の法則が間違っていることになります。子どもに「お母さんは恐いか、恐くないか?」「恐いよ」「いつから?」「小さいときから」かわいがると子どもは恐いと思わなくなります。恐いと思うのは愛ではありません。愛とは安らぎと平安を与えるものです。親が勘違いしています。愛された子は決してその人を恐いと言いません。愛された子は親にくっついてきます。愛は愛されたところにくっつきます。愛が目に見えるように分かります。自己診断ができます。子どもは面白くない。落ち着かない。勉強する気になれないことがあるとき、それを勉強しないと親は思います。する気になれないのを親は勘違いします。足が立てないのに立たないと思うのは勘違いです。盗みをする子は手が出るので、わざとするのではありません。おねしょでも同じです。そこに愛の解釈が欠けています。勘違いもはなはだしい。親は怒りという罰を与えます。小遣いをやらない。精神現象は単純です。愛しているか愛していないか、ただそれだけです。この子はどのくらい愛を受けているか、診断から始めます。「お父さんは恐いか?」「お母さんは恐いか?」言いかたによって程度が分かります。勘で分かります。零度か零下30度です。

「お父さんが恐い」とはっきり言える子は愛情が少し欠けています。恐いとも言えない子どもはもっとひどいのです。何度か判断して対策をたてます。中には学校の先生の愛情の欠ける場合もあります。自分がゆるされず、とっちめられている人ほど人をとっちめるのです。手で叩くより口で叩くほうがひどい場合があります。「あなたのような子は家に置きたくない。出ていきなさい」。言ったことばでその子の存在を否定する。「出ていけ」とは簡単に言うものではありません。注意をされたら誰も面白くありません。さばかれるからです。責めることばは、注意、叱る、怒る、程度の違い、量の違いです。子どもを注意して育てるものではありません。ほっておいてもいけません。どうしたらよいでしょうか。注意ではなく教えます。教える言い方と注意する言い方は違います。注意ばかりしている人は教える言いかたを知りません。学校では教えてくれません。「早く起きなさい」「どうして起きないの」と言えば、子どもは「うるさい」「分かった、分かった」と聞きません。ほっておいたら愛情がありません。「今7時30分ですよ」それ以上のことを言ってはいけません。「今起きないと8時になりますよ」。因果関係を教えるのです。子どものニーズに対して替わりのものを出す。補償代行といいます。たばこを飲みたいといったら規則違反です。からだに害があるからだめだと言い、他のものを買って与えるようにするのです。

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