2015年12月23日水曜日

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》(第1次講座 第4回)

(第1次講座 第3回)は欠席のため欠



  (第1次講座 第4回) 1988年9月29日

  (第1次講座 第4回) 1988年9月29日

 大事なことを電話では相談できません。面接に切り替えます。電話での相談には深入りしません。一度失敗したことをやり直しするような感じで新鮮な感じがなくなります。面接に際しては家族構成、子どもの出産からの生育歴を詳しく、具体的に書いてもらいます。小さい時は育てやすかったか、難しかったか。幼稚園時代から小学校時代はどうだったか、親との小さい時からの会話を思い出しながら書いてもらいます。私の場合は「私の本を読みましたか」と聞きました。
相談の前に提出すのが普通ですが、カウンセリングの時に持って来る場合があります。事前に色々な準備ができます。学歴、職業、どのような言葉、程度に話をすれば良いかということが分かります。高学歴の人にはそのように対応します。学歴がなくても考え方、記述の仕方の立派な人もあります。子どもがいつ頃から学校へ行かなくなった、勉強しなくなった、財布からお金を盗るようになったということが分かります。「小さい時から気の荒い子で」「そういうたち(性質)で」「生まれつきけんかの好きな子で」と行動に注釈をつけていることもあります。大事な所、第一印象で感じたところに赤線をつけておきます。どの程度に親が困っているか、寒さを感じるのに違いがあるように困り方がみな違います。すべて存在するものは質と量において存在します。質と量に差があります。大したことではないと思うようなこともあります。緊急を要するとき、家出しているとき、探しに行くべきか、警察に援助を求めるべきか、帰って来たときにどうすれば良いか、まれにはそういうこともあります。
いよいよ面接になるとカウンセラー、クライアントの都合のよい日にきめます。面接の場面(場所)は第三者の居ない所をえらびます。友人と、または相談していた人と一緒に来た場合でも別に待っていてもらいます。親戚であってもです。なぜか、〝行動は場の関数である″行動は環境によって変化します。回りの人が変わってくると人の行動は関数関係で変化してきます。
ある実例です。両親が離婚し、中学生の男の子がお父さんと相談に来ました。自転車を盗んだり、盗んだオートバイを乗り回しています。「別れたお母さんに会いたいか」と聞いたら「なにが会いたいものか」ときっぱり言いました。子どもとお母さんの人間関係の一端が分かります。子どもはお母さんに対して恨みを持ち反抗していることが分かります。冷静に答えたのではなく強調して言いました。子どもの答えに疑問を感じたので「お父さん、ちょっと席を外してください」 とその場から出てもらい、そこで子どもに同じ質問をしたら「会いたいです。今でも会いたいです」と本音を言いました。ある意味で言ったことは信用できないが、お父さんが出て行った環境において会いたいです。と涙をこぼしました。
 あらゆる行動は環境と関係があります。その子と環境との関数関係で盗みという行動が起きます。すべてがそうです。物質的環境で部屋の中には気流があります。測定する人が入るだけで、機械を装置するだけで変化します。気流ですらそうです。人間の行動はもっと変化します。どういう場所でどういう人間関係の情況でものを聞くか。だれだれがいるからああいう言い方をするのだ、とカウンセラーは推測します。会っている時と普段のようすと違っている時があります。その子のたち(性質)ではなく、すべての行動は場の関数です。そういうたちを持って子どもは生まれて来ません。「小さい時からあなたがその子を育てた」「それによって手癖の悪い子に育っていった」「小さいときから悪かったと思えて仕方がない」そうではなくそれに見合うような環境が必ずあるのです。それを見分けなくてはなりません。好ましくない行動が出るのはそういう環境があるからです。子どもに対する親の対しかたがあるのです。親は子どもを小さい時からかわいがって来たと思うのですが、かわいがっていないのです。どのような理由でしょう。赤ちゃんが生まれ、赤ちゃんの顔を見たら自分の大嫌いなお姑さんとそっくりだった。そのときからその子は大嫌いになりました。お姑さんからさばかれる、注意される。いやなお姑さんだといつも思っています。すると感情転移、防衛機制ともいうものが起きます。ある人に向けられた感情をそれと外形上よく似ている人に向ける。その人と関係ある人に向けるのです。〝坊主が憎いと袈裟まで憎い〟のです。名字が一緒だけでもいやな気になるのです。子ども時代に先生にいじめられた。教師だけは嫌いだ。教師とは結婚したくない。そのことは八卦のように当たります。
  知識階級の人にも起こります。若い時に〝生たまご″にあたった。それから20年も30年も〝生たまご″を飲みません。前にあたったたまごとは違っても似ているから食べません。自分を守るためにそういう仕組みがあるのです。場所についても転移します。この場所で救われたというその場所が好きになります。その場で叱られるとその建物まで嫌いになります。好きな人から物をもらうとその物まで好きになります。ある俳優が好きになるとその髪形をまねる。それが感情転移だと気付かせると段々薄らいできます。嫌いなお姑さんと顔が似ているだけで嫌いになった。お乳をのますのにも仕方なしにのませた。始終責められるものが心の奥にあったのです。子どもはそれを感じとります。おねえちゃんに対するのとはちょっと違うなと。
ある小学生の実例です。落ち着きがない。勉強しない。そこで母親がよく叱る。「いつから叱るようになったのですか?」「2、3歳からです」「私の性格になんとなく合わない子でそんなポケッとしないで勉強したらどう、と次から次へ叱る言葉が出ました」「安産でしたか難産でしたか?」「難産で私はあの子に殺されかけました。そのときからあの子のおかげで宝石など売ってしまいました」 私を苦しめた子ども。と行動の解釈をしているのです。「それはあの子が親を苦しめたのではありません。お産で苦しみ、あの子も死ぬか生きるかで出てきたのではないですか」そこで初めて気付いてワアーッと泣きました。貴金属を売ったことを思い出して腹を立てていました。それでその子を叱ったりしました。「私の勘違いで悪いことをした」全部分かってゆるせるようになりました。その瞬間一刻も早く家に帰りたい、あの子の好きな物を買っていこう。おわびのしるしに。「お母さんの顔付きが変わった」子どもは少年院に来るような悪いことをやっています。おわびをするということは子どもを徹底的にゆるすことです。子どもは一箇月ぐらいで変わっていきました。難産ということに感情転移したのです。生まれるとすぐに嫌いなお姑さんにかわいがられた。そのうちにお母さんはその子の心から離れていったのです。
クライアントである母親か子どもが話すとき、感情転移があるかどうか調べることが大切です。「生れつきは白紙ですか?」「素質というものは無いのですか?」 と皆言います。素質論はありません。精神的におかしいのは遺伝かしら、〝いとこ″にそういう人があると、そういう素質かと考えたくなります。ほんとうはそう考えたくないが考えると楽になるのです。絶望の末遺伝だとあきらめるのです。それは違います。そう考えるのは半分インテリの人に多い。根強く入りこんでいます。
昔、盗みの素質が頭の骨格に出ているということで囚人の統計をとったことがあります。笑い話です。学説を立てました。今でも同じような考えかたをする人が多くあります。それを救うみことばは「神を愛するものたちには万事が益となるように共に働く」(ロマ8章28節)ああいうことがあったからこんなに幸せになった。益とは幸せなことです。すべてのことが働いて益となったと思えるようになったと書いてあるのです。奇跡のように思えます。それをカウンセリングの場でも経験します。「私の家でも奇跡が起きました」「こんなことは直る筈がないと思っていたことが直りました」考えの間違いを訂正して受け入れるのです。叱るから悪くなる悪循環が起こります。「子どもを叱ってはいけません。悪くなりますよ」といっても聞くだけで「叱った方が良く効く」と考える。理論を持つと理性が受けいれる。そうすると今まで持っていた考えを捨てられます。心の状態は環境が変われば動いていきます。人間の心は物品とは違い変わるものだから直すことができるのです。
クライアントの考え違いを「それは違いますよ。あきらめれば楽ですが幸せはありません」などと言うといやな感じが残ります。その子が変わると信じれば希望が出てきます。カウンセラーを信頼していれば、説明を素直に受けいれます。     
他のカウンセリング書を信頼する人がたまにくることがあります。信頼しない人のカウンセリングはできません。イエス様は信頼するものを救うとおっしゃいました。そう説明してもむこうが受け付けてくれません。反対に信頼する人はすぐ直ります。どんないやだと思う人でもその感情を取り除いて接しなければなりません。あの人はいろいろな本を読みすぎて間違ったものが取れないのだ。この人もかわいそうだと思えばゆるし、話を進められます。対抗して話をしていた傲慢な姿勢に気づいてあやまった人もいます。紹介者によっても直るか直らないかが分かれます。クライアントの信頼度が違ってきます。いろいろとカウンセリングを受けたあげく先生しかないと来た人はすぐ直ります。カウンセラーを信頼しているかどうかは対話をしているうちに分かります。ゆるしながら話していくと実績で信頼するようになります。
『愛は裁かず』の一ページに書いた女の子の場合、少年院へカウンセリングの現場を教官に指導するために行ったのです。「やさしい良い先生が来てあなたのために話してくれる。僕たち教官とは違う。何でも相談にのれるよ」。ここの教官は嫌いだけれど違うというから会ってみよう。その子が来て座りました。テープが回っていました。「録音するのはいやだな」と言いました。「それでは録音を止めてもらおう」と言ったら「まあ良いです」と態度が変わりました。すぐ止めてくれるような人に対すると認識が変わります。良い先生かどうかクライアントは試験しています。こんな人と会ったことないと感じていきます。「この先生がこうしたらどう?」と言ったらその通りにやるという姿勢に変わります。信頼する人の言うことはよく聞きます。信頼しない人の話は聞きません。信頼を対話の中で深めていきます。よい先生だな、優しい先生だな、と思わせる対話、やり取りを深めていきます。
やさしいという言葉の概念は、「やさしく言ってくれる。してくれる」で、言ってくれるはゆるした言い方、裁かない、責めない、寛容な言い方をしてくれる人。してくれるとは、ニーズを満たすこと、親切なこと、やってほしくないものを取ってくれる。積極面と消極面があります。寛容と親切を総合して愛するといいます。ゆるすと、やるという二つの愛です。家庭に愛が欠けるとはゆるしてやらず、叱っている。ご飯を食べさせないということとは違います。「悪いことは悪いとけじめをつける」寛容という愛が欠けた家庭ばかりです。
少年院の女の子の場合、あとで研究会に使うテープは、私はとらないほうがよいと思い「課長さん、この子のために止めてほしいのです」。そのときその子が私を信頼してくれてたいへん嬉しかったのです。その子がやさしい先生だと思ったその瞬間に判断しました。そこから本当の信頼が始まりました。まだ見ないところを確信しました。勝負はもう決まりました。「あなたの小学校時代は?幼稚園時代は?」と聞きました。弁論大会で優勝したとび切り頭の良い子が転落したのです。中学時代から非行少年グループに入りました。最初のきっかけは、男の子と付き合って本の貸し借りをし、勉強を教えてあげていることを担任の先生が親に注意しました。父親に叱られ正座させられ痛めつけられました。そのときショックを受け親との愛が断絶し、親の困ることをやってやろう。自分の一生を犠牲にして親を困らせるために復讐してやろうと思ったのです。
最初の出発点が大切で、シンナーを何度やったかということは関係ありません。警察が聞くことです。警察の調書は裁判にするために調べますが。カウンセラーは最初の踏み出し、なぜそうなったか、違ったレールに乗っかったか、いつ勉強嫌いになったか、情況、環境、今までやっていたそこを聞きます。心がけを聞くのではなく人間関係の環境、その人がその子に何を言ったか、その子が何を思ったか、そこが大事です。根掘り葉掘り聞くのではありません。お母さんに聞くと途中のことはくわしく書いてあるが、カウンセラーはそんなところは飛ばしてよいのです。話の途中で相手の言ったことを裁いてはいけません。不用意に話していても裁くことばが出なくなればプロのカウンセラーといえます。
〝NON DIRECTIVE COUNSELING(ロジャース・米)〟相手の言ったことを裁いてはいけない。おうむ返しに言いなさい。その通りに話すと楽になる。何べんか相手の話した同じことばをくりかえす。そのうちにクライエントが僕のまねばかりしていると言い出します。
大学の先生から伊藤先生の場合は一回で直ることが不思議です。教えてください。といわれました。大学の先生たちが私の講義を聞かれました。技術的に対応の仕方を教えると害があり、口先ばかりで対応するようになります。その人の行動を心からゆるしてあげる。ゆるさずに口の先でまねをして応答するのとそこが違います。ゆるす理由が考えつかない人はゆるすことができません。心の中で怒ることが口に噴き出してきます。「叱ることは止めなくてはいけません」ではなく「ゆるしてあげると叱るのが自然に止みます」技術です。少女をどうしてゆるすか、「あなたのお父さんは教頭先生です。お父さんは子どもにどう言うべきか分からないから、無知だからそんなことをやった。そこであなたは〝ぐれた″のです」〝無知だったから″はお父さんを救います。子育てを知らないからあなたにそんなひどいことを。「主を十字架につけた群衆を無知ゆえに赦された」そのみことばを思い出して私は言っているのです。「あなたがぐれたのはその言葉のせいです」全責任をそっちにもっていきます。「あなたも少しは悪かった」と言っては全部だめになります。そのとき子どもは「私も少しは悪かった。妹はぐれずに私だけぐれた。自分が悪い」という罪意識が生じます。「それは妹とは言い方の程度が違うよ、あなたに言ったことはひどいよ」その言葉で全部ゆるされてワーッと泣きました。ゆるしの愛を体験したのです。宗教体験をしたように安らぎが、と手紙に書いてありました。非常に深い宗教体験。「愛のほかに神なし。神は愛なりと体験しました」十字架の赦しの愛を体験したのです。「考え間違いをゆるしてやったよ」という言葉は禁物です。私の本の中にはいっぺんも出てきません。

《午後のお話》
 困った問題が子どもに出ると責任の追及が始まります。「お母さんが甘いからこういう子になった」「お父さんがもっと遊んでくれればよいのに、子どもに接触してくれないからだ」と責任をよそへ持っていきます。この子の生まれつきではないかとも考えます。『十字路に立つ子ら』の中の例からお母さんは今度は男の子が生まれるように願をかけました。お母さんは自分が裁かれています。イエスは親の罪でこういう子ができたのではない(ヨハネ9章1~)自分の罪でもない。自分の欲しない、いやなことはそれによって神の栄光が表れるためと現象の解釈、行動の解釈をされています。神の素晴らしいこと、喜びが表れるためと言われています。今悲しむ者は幸いである。幸いでないと思われることが幸いであると、非常な感動、喜びを与えられるためにこうなっていると解釈されました。生まれつきという考えをたちどころに変えられました。親は子どもの前途を案じています。カウンセラーとしては今すばらしい喜びをこのお母さんは味あうと確信しました。「どこへいっても駄目だといわれたこんな子が直るでしょうか?」「直りますよ」。
盗みをする子、子どもは校長室に呼ばれてびくびくしています。学校に来ていることを褒めました。盗みをする前は正直な良い子だったことを褒めました。盗みをして警察に呼ばれていてもその子の顔がかわいらしかった。愛情に欠けるとは寛容の愛か、ゆるす愛が欠けています。毎日叱る。それが愛に欠けることです。愛とは親切なこと、その子を責めずにゆるしてやる場面にしようとしました。褒めっぱなしで注意も何もなく帰しました。褒めることによってゆるしを伝達することが大切です。芯からゆるすことばがその子に効きました。長所を褒め、短所を指摘するこれが教育の普通の考えです。短所は裁くことになるから触れてはいけません。褒めることだけでそれっきり直ってしまったのです。こころから褒めたかどうか、子どもは見分けます。芯からゆるしていないのに芯から褒められません。技巧でまねしたのではいけません。そういうカウンセリングがはやっていますがうまくいきません。自分の家の子どもが直せるかどうか、両親が欠点をゆるせるかゆるせないかの一点にかかっています。ゆるされた時に愛を感じて人間が変わるのです。ゆるしたしるしに子どもに小言を言わなくなる。叱る、怒る、の大型爆弾、小型爆弾の違いです。「楽になりました」「すっきりしました」「肩の荷が下りました」とクライアントが言ったらカウンセリングは成功です。直らないと思っていたのが直る。ゆるしてやれば直る。確信をもって言えます。真理です。「やるぞ、とやる気の顔をしています」と言いました。ノイローゼのような状態で、注意すると怒り出すようだったのが猛勉強するようになりました。漠然ととらえていたのが一つの法則で説明できるようになりました。
 「一日いっぺん褒めること」「それをやめると直ります」と命令形で言わないことです。親に教えていく言い方をします。当たり障りのない「と思います」と付け加えると良いのです。私は断定的に言っています。「この子のためには時間とお金のどんな犠牲をも払います」と母親は言っていたのが、裁きの言葉をやめただけで直りました。テープの巻き戻しをしただけで直りました。全部のケースがそうです。さばいて叱る、責める、そのレールの上を走っているのです。長年技術を磨き研究してきたのだから捨てたくない。押入れの隅にしまっておきたい。お母さんが昔の癖が出て注意することばを言ったけれど、子どもは気にもしません。それは不思議です。長い間のこともゆるされた、ゆるすことが子どものほうにできたのです。子どもがえらくなった。お母さんが続けてゆるすことをやったから子どものほうからゆるせるように成長したのです。
 自分が家庭の中で徹底的にゆるされると、先生をゆるすようになります。先生を責めると恐い。自分に敵意があると恐い。ゆるすようになると行けるようになります。登校拒否はきっかけをつかむとある日突然行くようになります。いわば大人になったことです。お母さんは幼稚で子どもの領域にいるのだと思うようになる。その理論が分かってきました。ゆるせず敵意を持つと相手が恐く見えます。敵意が強いほど相手が恐くかたきに見えます。ゆるしの愛憎関係です。愛の正体をつかんでいません。ゆるすことが愛です。十字架の愛はゆるすことの象徴です。人間をゆるす理由を作られた神のわざです。歴史の上で作られた。歴史の間で計画をなさったと書かれています。カウンセリング理論の頂点に立つのがゆるす愛です。十字架のゆるす愛が分かると理論が網の目のように立てられてきます。「家のこんな子はなおらないでしょう」「ちがいます。やるようになれば(理論どおり)直ります」お母さんが完璧でなくてもよいのです。カウンセリングに来て相談しているうちにゆるせるようになります。
伝えていくにはガラス線では伝わりません。銅線で、言葉で、動作で伝わります。父なる神の伝えられた模範は放蕩息子の例にあります。(ルカ15章11~31節)一番良い着物を持ってきて着せてやり、一番良い羊をほふってくれた。お父さんが本当にゆるしてくれたのだという感動がありました。ゆるしのしるし、見本です。伝達はどういうふうにされたか。ゆるす愛の本の中に例題を書きました。褒めることはゆるしの伝達です。褒めただけで常習犯が直ります。「ありがとう」はゆるすことば、褒めることばでもあります。小遣いを思いきって与えます。そこに一言加えると効果はゼロです。そんなのいらないと返してきます。ゆるすことは難しい。理由の発見が難しい。本当にゆるせる理由を作るために全能の神は処刑されるイエスを助けようと思えば助けられたが黙しておられました。カウンセラーは理由を教えることができます。ゆるせないということばをゆるされたから大きい感動で楽になった。ゆるす適当なことば、ゆるす構えは練習を積んでいないと出てきません。ゆるしを経験した人はゆるせるようになるのです。

《質問に答えて》
◎子どもを勉強好きにするにはどうするか
 「そうすると子どもがだめになりますよ」「あとで手がつけられなくなりますよ」と因果関係を教える言い方をするのです。やらないときには何も言わず、たまに勉強をやったら褒める。冗談にも「めずらしく勉強しているね、雨が降るね」などと言ってはいけません。勉強好きにするにはどうしたらよいかという理論、簡単な方法は、やっているということを褒めることです。「今日は寒いのによくやっているね」と心から褒めるのです。嬉しい気がして顔色が変わる程度にほめます。コーヒーを出したりケーキを出したりすると勉強をするのは楽しいな、とやみつきになるのです。
感情転移で叱られたことを思い出して机に向かうのがいやになることもあります。叱った経験のある机を変えてみる。机に感情が転移するからです。褒められると机までが好きになります。褒めることで子どもが立派に育つ例はいくらでもあります。目的意識を確立する。なぜ勉強するのか、勉強の必要性を子ども自身が打ち立てることが大切です。何のために勉強するのか、入学試験のためばかりだと疑問をもってきます。圧迫されて苦しいけれど頑張らなければならない。合格するためには。本当の勉強意欲をかきたてるのはどうしたらよいか。
国の文化財として登録された本(児童福祉法8条7項)『子をめぐる愛憎』に勉強のさせ方、どうしたら勉強好きになるかを理論的に書きました。
  1. 褒めること。(上手に褒める。間違った褒め方をしない。そのものを褒める。お母さんの腕前にかかっています)
  2. なぜ勉強しなくてはならないかを子どもに分からせる。(目的意識を確立。あそこの学校はどうのこうのということは圧力をかける。落ちたらどうしよう、苦しくなる。合格するために勉強しなさいは一番いけません)
決して注意しない。零点をとってきても見せたことを褒める。机に向かっているだけでも褒めるのです。小学校二年生の子どもが明日は遠足です。だんだん天気が悪くなってきた。「明日は天気になるかしら」「明日はだいじょうぶよ」「新聞の人はどうして分かるの?」「それは勉強をしているからよ」「勉強をすれば分かるの?」そういうチャンスを待っていたのです。それから意欲的にやるようになってきました。チャンスをつかんで目的を果たすことが大切です。


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