2015年12月23日水曜日

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》(第2次講座 第1回) 1989年6月29日

カウンセリングは愛に出発し愛に終わるもので、愛なくしての人生カウンセリングで素晴らしい栄光を見ることは決してありません。どうしたら解決して共に喜ぶ結果になるものか、その知恵を学ぼうとするのがこの講座です。知恵を理論とも、真理とも、法則とも言います。行動が起きる場合、どういう法則によって起きているか基礎理論から入って行きましょう。
その人の性質から行動が起きてくると考えたことがありました。たち(性質)だから、ぐずのたちだから、勉強嫌いのたちだから勉強をしない、といいます。そういったときその子の性質ではないかと考えます。遺伝ではないかと考えます。親もよく盗んだ。だからあそこの子も盗むのだという。筋を引いたのではないか、隔世遺伝ではないかと、念には念のいった考え方です。身体的な欠陥についても人は遺伝ではないかと考えます。精神的な病気は殊にそう考えます。イエス様はどう答えられたか、人間が考えやすい典型的な場面で、生まれつき目の見えない人を、呪われて生まれたのではないか、罪を背負って生まれたのではないか。ばちが当たって生まれたのではないかと考える人に「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ九章3)と答えられました。みことばによって盲人は裁かれている暗い気持ちからゆるされて解放されました。これはゆるしのことばであります。そのしるしにイエスはその盲人を見えるようになさいました。これが神の栄光なのです。栄光とは素晴らしい場面です。それによってばちが当たったのではないか、という考えから解放されました。わたしがこの世に来たのは裁くためではない、罰をするために来たのではない。これによってこの世をゆるすために来たのだとおっしゃいました。
  人はゆるされるときに楽になります。「すべて疲れているもの、すなわち悩んでいる人、重い荷物を負っている人は私のところに来なさい。私があなたを休ませて上げよう。」私を信じる者は私のすることができる。かつ、もっと大きいことができる」と励まされました。私はこの言葉が大好きです、自分にいただいた言葉のような気がします。おそらく励ましの言葉でしょう。カウンセリングを受けた人が「ああ本当に楽になった」「すっきりした」「肩の荷が取れた」と輝くような美しい顔をして話す。「鏡を見たときこんな顔になってみたいと思う顔になりました」と言う。神の栄光がそこに現れています。何度も繰り返された体験をしています。たまに起きることではありません。「私のすることが出来る」誇張ではないと思うのです。私を信じる者とは「神様、神様」と祈る人ではありません。間違えないようにとあります。「私のいましめを守る者」と聖書に定義づけてあります。最も大事ないましめは、「私があなたを愛したようにあなたもあなたの隣人を愛しなさい。これより大きいいましめはありません」。イエス様が暗闇の中から救ってくださった喜びから、いましめを守りたい。それをする人を信仰の厚い人だという。イエス様が救ってくださった、だから私はそれをする。そこに信仰があるのです。信仰と希望と愛の中で一番大切なものは愛です。お間違えのないように。愛の無い者は神を知りません。なぜなら「神は愛なり」と書いてあります。
  今日集まった方は、知ると知らずをとわず、神様が選んでここにお集めになったのです。「あなたが私を選んだのではない。私が選んだ」という言葉によって導かれているのです。偶然来たと思っているかもしれませんが聖書にはそう書いてあります。
私は初めて信仰に導かれた時そのお言葉どおりでした。私は病弱でお先真っ暗であったとき、誤配された手紙の宛名を探して届けました。「師範学校西」と書いてありました。自分の悩みで一杯の時、人のことどころではなかったその時、家を探して手紙を持って行きました。きれいな輝いた人が出て来ました。「有り難う、学生さん。あなたがこの手紙を持って来たのではありませんよ。神様が選んでこの手紙を持ってこさせたのですよ」。きれいな人の言うことに反撥しませんでした。すすめられて上がりました。ご主人が出て来られて「学生さん、聖書を読んだことがありますか?」。聖書は読まなかったがイエスは大変な聖者だとは知っていました。西田幾多郎の本を読みました。『禅の研究』、その本の中に「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではない、という境地に達すれば宗教の極致である」と書いてありました。そういうことを深く分かりたい気持ちが少しはありました。「私がその極致になった」とは書いてありません。理想として見ていたのではないでしょうか。
この人はどこの学校を出た人かしらん。単純な人ではないか、「神戸高等商業です」。ああいう風に信じられたら良いなあと思いました。清潔で清らか、謹厳な感じでした。「日曜ごとに数名で聖書を読んでいるから来てはどうですか?」と誘われました。その人の先生、柘植不知人先生に一緒に導かれました。そこの集会に入って行ったときから神様の臨在にふれました。合宿で救い主の神が分かりました。神様が私を導くために手紙を誤配させた。神様が選んで下さったのだという確信ができました。その考えは一度もゆらいだことがありません。永遠を見通す神ですから。限りなくゆるす神、愛とはゆるす神ということです。愛の外に神はない。愛とはゆるすということ。そういう意味です。傷のある者、罪のある者を選ばれてゆるされました。世の与えるようなものではない平安を与える。聖書を知らなくてもそういう人を神はお選びになられました。支えて分からせるために、悩んでいる人を救うために、子どもが暴走し登校せず、どういう悩みでも、あなたが愛されたように、あなたもかかわりのある人を救って上げなさい。と語られた。そういう方の相談にのるとき、重荷を取って上げず「信じなくてはいけません、夜、晝、祈らなくてはいけません」そうことは言わないように。
  知恵で学ぶのがこの養成講座です。知恵は理論、法則、真理。現代の科学で表現する知恵で説明していきたいと思います。みことばを科学の方程式で説明する場面が出てきます。みことばの読み方を間違えている場合があります。みことばを裏付ける法則があります。みことばの意味を誤解して読んではいけません。   
行動はどういう法則によって起きてくるか。
      行動=関数(人・環境)      クルツ・レビンの行動の法則
      B=F(P・E)            K・Lewin
  新心理学といいます。凡ての行動は人と環境との関数によります。厳密に言うと数学の法則に似ていますが、数学の法則を比喩的に応用しています。行動=登校拒否、盗み、その子が変われば行動も消えて行きます。その子は前と同じでも周りの環境としてのお父さんお母さん、学校の先生、友達が変わってその子が変わった例がいくらでもあります。どういうカウンセリングをするか、楽な、経済的な方法を選びます。その子を変えたほうが手軽です。人間の知恵は全能でないから。環境とはやさしく言えば周り、自然物理的環境の中に人は住んでいます。幽霊でない限りその環境からのがれることはできません。
部屋の温度が上がるだけで行動が変化してきます。その人の心掛けのせいではありません。道徳的価値判断は人間の環境に関係があります。社会的環境、こんな子になったのは環境が悪いのです、という場合自然的環境ではありません。
人間関係では、生まれた時から喜んでくれるお母さんの環境があります。生まれた瞬間大嫌いなお姑さんにそっくりだ、というその子の社会的環境は悪かったことになります。生まれたときは難産であったか、嬉しかったか、社会的環境を調べます。生まれてきて喜ばれなかったかどうか、恵まれない環境に出産と同時に育った、と書きます。存在を喜ぶことを愛といいます。愛でない環境に出産と同時に育ち始めたと書きます。聞くべき環境とはお父さんも、おじいさんおばあさんも兄弟もみな環境を構成しています。トラブルは無いか、寛容な愛の環境はどうか、子どもが生まれたときお兄ちゃんが居たか、長男か、次男かでも環境は変化します。今まで怒らなかったお母さんが怒るようになった。兄弟が生まれた。愛情の環境か、そうでないか環境に目をつけていきます。その子の生育史、生活史を調べます。愛されたか愛されなかったか。幼稚園では、中学では、具体的にその子から聞いたり親から聞くと親と子に食い違いが出てきます。お母さんはそれを聞いてそんなことがあったかとびっくりします。その子の行動に影響するのはその子の認識した環境なのです。「小さい時からおもちゃに埋まって育てました」「充分やってきました」。子どもに聞くと「お母さんはかわいがってくれない」と食い違いが生じます。それを子どもの心理学的環境といいます。お母さんがたは否定します。お母さんはかわいがっているつもりなのです。子どもの言うほうが本当です。お母さんが愛と愛でないものを勘違いしているのです。愛は子どもについて勘違いをしません。心理学的環境で行動が起きて来るのです。両親があるとか無いとか、金持ちとか貧乏とか関係ありません。お父さんがインテリかそうでないかも関係ありません。お父さんがかわいがってくれているかどうか、子どもから見たものが大切なのです。心理学的認識。愛でないものから愛に変わると子どもが変わります。三分変わると三分、十分変わると十分変わる。関数だからです。

《午後の講義》
 ◎人間の環境
家族構成、学歴、職業、お父さんやお母さんがどういう考え方でやって来たか。それを聞くのが環境を調べることです。裕福な大きな家に住んでいるか、ということは環境には関係しません。どういう考え方で子どもを教育しているか、必ず聞きます。「子どもが良くないことをしたときどうしてきましたか?」と質問します。すると、「私はあまりタッチしなかったが家内が過保護でやってきました」と答えが出ます。そこに問題があります。どういうことを過保護といっているかが問題です。過保護の内容について、子どもが何か要求するとそうかそうか、とすぐいうことを聞いて来たか、小遣いをほしがるとすぐ与えて来たか。過保護と甘やかすを、どういう意味で使って来たのか。「甘やかして育てるとはどういうことですか?」「子供の言う通りにやらせてきました」「あまり叱らずにやってきました」「ちょっと叱るのが足りなかったかしら」「叱らねばならない時に叱らなかったからではないか」「ちょっと足りなかったのではないか」「叱るときには叱り褒めるときには褒めて来ました」「どっちが多かったですか?」「この頃褒めることがなくて」そういうのを家庭の社会的環境と言います。叱る、褒める環境が、過程がみな違っています。「あそこの家では叱るときに叱っていたのに立派に育っている。家の子も叱って良いのではないか」「隣の家でもやっているのに。隣の家では褒めるときにはうんと褒めている。家の子は褒めるところが無いから褒められない」。
叱り方があります。注意するような叱り方、叱り方の程度があります。「叱って褒める」と書いてある本があります。それは危険です。叱られると毒ができ、褒めると毒消しになります。例えるとそういうものです。叱っても褒めると、まあまあの子になります。その日の中に褒めます。つまり子どものごきげん取りをするのです。あくる朝まで過ぎると毒が回ってしまいます。叱られるということは罪意識を伴います。褒めることは罪の意識をゆるすことです。そこにゆるしの愛が行われることになります。褒めることはそのものの存在を肯定することになり、存在を喜ぶことになるのです。存在を喜ぶことを愛というのです。「あなたがいるだけでも嬉しい」「あなたの顔を見るだけで腹が立つ」「あんたの顔なんか見たくない」愛が無いことばです。「お母さんは僕なんか家に居ない方がいいんだろう」「そうだよ、勉強もしないで」これはお母さんに愛情がないことを表しています。「そうか家でも出てやろうか。下宿してやろうか」自分の部屋に鍵をかけて、できるだけ親の顔を見ないようにする。程度が分かります。あらゆる存在するものは量と質とにおいて存在するのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20章20)と書いてあります。キリストの弟子たちが愛情をささげています。
  親の子どもに対する態度、叱るか叱らずにゆるすか。それによって家庭の環境が変わります。叱った方がよく勉強するような気がする。子どもに言わせると環境が悪いと言います。「僕の家はやる気になれない。勉強する気になれない」。態度を分けるとゆるす態度と責める態度の二つに分かれます。叱るけれどその日のうちに褒めることを考える。褒めることが無くても作れば良いのです。暴走に行く前にポストに手紙を入れさせて「めんどうなことをよくやってくれた」と褒めました。子どもはそんなお母さんを今まで見たことがありません。お母さんが考えたことでした。自分の知恵で作ったのです。真剣になると知恵がでてくるのです。だから値打ちがあります。それですっかり直りました。お礼を言いました。お礼は褒め言葉です。ゆるさなければ心から褒められません。褒めことばはゆるしたことです。その子のすべての罪をゆるしたことです。子どもはゆるされたと思いお母さんの喜ぶことをしました。愛のお返しです。愛には愛のお返し、憎しみには憎しみのお返しがあります。
環境は、責めているかゆるしているか二つに分けることができます。ゆるすのを寛容といいます。寛容という愛。愛の場合は怒りません。平安を与え喜びを与えます。愛であるかどうかは実で分かります。子どもを怒らせてはなりません。愛の場合は子どもが喜びます。怒る時には愛では無いから結果によって分かります。親切とは相手のニーズをみたすこと。ゆるすとそのものの存在を喜ぶから親切が生まれて来ます。私は限りなくあなたを愛します。望むもの、ほしいものを充たしてあげる親切。ゆるしているからそのしるしにあなたのほしいものをあげますよ。ゆるしが先です。ゆるして存在を喜ぶ。そこに親切という愛が生まれてきます。法則上の説明です。責めるかゆるすか、それによって環境が変わってきます。逆になると中から噴き出て来る。ゆるさずに叱るということは軽業師にしかできません。口は押さえて目付で叱っているようなものです。

  カウンセラーの段階が出てきます。裁いて教えてはいけない言い方があります。どこが違うか分かる人は頭が良い人です。はっきりしていないところのある人は60点くらいしかあげられません。おいしいまんじゅうもまずいまんじゅうも分からないのです。最初に「あなたは叩くからだめですよ。これから直していけば良いのです、明日から直しましょう」と、クライアントは悩める人、重い荷物をしょって疲れている人です。それを楽にして上げるのです。とっちめて言ってはいけません。環境を変えるために「あなたは叩いてきましたか?」「言い聞かせたくらいでは聞かないので叩きました」「なおりましたか?」「よけい悪くなりました」。叱る言い方、注意をする言い方をしないことです。「あなたはそうやってきたからこうなったんですよ」と言うと責められます。私の書いた本『十字路に立つ子ら』にはそう書きました。まだ未熟でした。叱る言い方と教える言い方の違いをどういうふうに教えるか、「子どもを叱って育てると子どもは反抗しますよ、もっとひどい子になりますよ」と教えるのです。これは教える言い方です。「自分の責任だと思うと悲しくなって眠れません」。楽にして上げることを目安に対応を進めます。「叱っても子どもはいうことを聞かないんですよ、どこの子もそうですよ」と言っても良いし「伊藤先生の本に書いてありますよ」「聖書にお手本が書いてありますよ」 といってもよい。人間が裁くのではなく真理が裁くことになります。真理に裁かれて反省します。真理に裁かれる時は怒りません。「そういうものですよ、そう書いてありますよ」とこの言い方が大事なのです。命令形は裁かれます。「時間が来ました。止めてください」 は50点。教えることは乱暴に言ってもだいじょうぶです。反応を見ると分かります。

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》第一期生講習会   (1989年4月27日)

感情転移とは、外形上似た者、関係あるものに感情が移って行くことです。ある人に向けられた感情が外形上似た者に移って行くという定義です。自然に自分を守る防衛機制の一つです。自分に危険なものを避ける。今までの経験から判断していき、丸顔の人にひどい目にあったらそれに似た人を避ける、パッパッと判断します。嫌いになるというのも防衛機制の一つです。感情転移は好きだという感情も移っていきます。労力を使わずにすむ便利な心の動きです。なんとなく好き、というのも感情転移です。不合理な現象です。生活の中で邪魔をすることが多く起きます。
  「今度の先生は良い先生だ、お母さんの好きな先生だ」 「それなら行かない」お母さんが信頼している人なら行かない。お母さんが嫌いな人なら行く。お母さんが変わって子どもとの関係が良くなれば子どもはついて来ます。無理してその子どもの家を訪ねたら子どもは逃げてしまうか、居ても出て来ません。お母さんとカウンセラーがグルになっていると思うのです。勉強しない、テレビばかり見る、夜、昼、間違えている、小言を言いたくなると良い関係になりません。感情転移で、お母さんに向けられた感情をカウンセラーに向けてきます。良い先生だと、言っても子どもは信用しません。カウンセラーのところへ来ることに成功したら、まず来たことを褒め、カウンセラーも嬉しい顔をします。子どもを一生懸命褒めます。子どもを褒める材料を考えます。嘘のことを褒めても納得しません。感情転移を先に取り除きます。「良く来たね」と言うと、「お母さんはこの頃は前と違って僕に嫌なことを言わない。言うことを聞かなければ義理が悪いでしょ」と理屈を言う。一度感情が転移しても続くわけではありません。食べ物でも一度あたるともう食べたくない。インテリでも感情転移をします。感情だから薄らいではきます。自分を守る機制で自然に備わっているのです。
ある会社の社長の家で、子どもが勉強をせず、悪いグループに入って、高校になんか行ってやるものかと親を憎み、復讐している例がありました。約束の時間になっても相談に来ません。「強制的に連れて行こうとして時間を取っているのではないか? それで 電話を掛けるひまも無いのではないか?」というのが善意の解釈です。「そういう子を育てる親だから時間を守らない、出来損ないが出来るわけだ」悪意の解釈です。一つの行動に対して行動の解釈をするとき、「遅刻するのはだらしがないから、真剣味が無いから」 別の解釈は、「用事が出来たから来られないのではないか」「良く入ってきた」 「図々しくはいってきたな」といたわりの解釈と悪意の解釈のどちらかを常にやっています。その解釈の仕方によってその人がどんな人柄かすぐ分かります。
欠点を子どもが言った場合それをゆるしていきます。たとえば「僕は嘘つきだ、今の今まで言っていたことはうそだ」「君は正直だ、本当のことを正直に言ったから」と転換していくのです。「そうか君は嘘ばかり言っていたのか」と言ってはいけません。「正直だね、嘘ばかり言っていたという、それが正直だ。それを正直だと言うのだ」と褒めます。0点の成績を見せた時「よくこんな点を見せるね」と言わず「あなたは正直な子だね、お母さんを信頼してこんな点でもよく見せてくれたね」と同じ行動に対して二つの解釈があります。カウンセリングの基本で気をつけることは、5分~10分話しているうちにフワーッと楽になっていく。相手の言った事を裁いて、とっちめることを一言でも発したらもうおしまいです。口で言わなくても、目で言っても、びっくりした表情でもいけません。
「私は泥棒を毎日やっています。お母さんも知らないけれど」「何を取ったの?」16、7の女の子が「先生はたいしたものです、ほかの先生とは違う。何でも本当のことを話せるところが違う」と言いました。自分の味方だと思いました。親には話せない。カウンセラーはそうでなくてはなりません。子どもの引け目をとっちめてはいけません。心でとっちめたら顔に出ます。心から引け目をゆるしてやります。ゆるせるようになることと相手に上手に伝えることができるようになる、二つ出来る人がカウンセラーになれるのです。どっちが欠けてもいけません。より大事なのはゆるせるようになるほうです。理論を知らなくても、方法を知らなくても、ゆるせるようになるには道が開けてきます。理論とは一つの真理、いわゆる登山口です。神がイエス・キリストの血によってすべてをゆるしてくださった体験。「私が愛したように、ゆるしたようにそのようにあなたもゆるしなさい」。自分が神からゆるされた喜び、限りなくゆるされた喜び。こんなありがたい話はありません。
ゆるすにはゆるす理由がいります。神様ですら理由をつけるため清い御子を地に降し、罰せられ、罪をゆるす理由を作られたのです。その理由で、その打たれた傷で人はゆるされました。罪の女を(ヨハネ8章3~11)人間は皆そういうものだという理由でおゆるしになりました。罪の無い人はいないのだ、という理由で。ゆるされたらどうするか、感謝をしなさい。天と地とそれに満ちるものすべてのものは神のものである。ただ感謝の捧げ物を神はお喜びになります。人間に対しては十字架のあがないのゆるしを与えられましたが、現実は十字架を語らなくても、ゆるされたものがゆるすことができるのです。
  すべての愛は本流の水源地である神より出ます。もしそれが愛ならば。神というものを意識しなくても、それを受けたものは私もゆるされたのだから人もゆるそうという思いになります。「すべての愛は神より出る」 ゆるしの愛を受けると平安があり肩の荷が下ります。愛なる神は私の平安をあなたに与える。世の与えるものではないと語られました。非常な平安、安らぎ。知ると知らざるとにかかわらず、神から出ています。十字架でゆるされました、と言わなくても、ゆるしていけば神のみこころにかないます。事実があれば良いと聖書に書いてあります。愛の深い人はゆるす理由を考えます。理由が出て来ない人は愛の少ない人です。子どもに対して「ごめんなさいと言いなさい。言うまではゆるさない」といつまでもねばるお母さん。ゆるす理由を自分で作る。そうでないと理性が承知しません。叱られた時ごめんと言うと相手がゆるしてくれます。大学の講義でも「ごめんと言いなさい、生活の知恵だ」といいます。子育てを失敗した親は、子どもも引け目を持ち親も恥ずかしい思いをしている。その時にカウンセラーはゆるす理由を考えて、引け目を取り、楽にし、肩の荷を降ろしてあげるのです。

《午後の学び》
  登校拒否は家庭内暴力を伴うのが普通です。学力の遅れを取り戻さなければ、ついて行けないので又登校拒否になります。学力回復をどうして計るか、勉強のさせかたを指導しました。妹はかしこい子。妹に兄の扱いかたを教えました。一年生の子どもです。教えた通りにしたら兄がおとなしくなりました。母親が勉強を教えました。家庭内暴力が治まり、家庭も落ち着いてきました。草野球をやっているうちに友達に「お前学校に行ってないじゃないか」と言われ「そんなら行けばいいだろう、行ってやるよ」というのがきっかけになりました。突然行くのだから梅の枝をもって行きなさい、良い着想で皆に歓迎されました。そしてクラスに溶け込みました。登校拒否が直るのにもいろいろなケースがあります。
埼玉のある中学生の例です。行ってはどう?という暗示を徹底的にかけないようにしました。そんな顔付きをしてもいけません。兄と祖母と母の家庭です。一、二か月位で「お母さん気をつけて仕事に行ってね」、と口をききました。「僕、今日から学校に行くよ」と突然言い出しました。暗い部屋にばかりいた子が一人で出て行き、そのまま行けるようになりました。「もう行ったらどう?」という目付きもいけません。中から力が出てくると抵抗も排除できるのです。基礎学力だけは遅れないようにします。登校拒否の子どもは攻撃的でそれを家族に向けます。先生や友達にはそれを向けない。その憎しみが外に向かうのが校内暴力です。登校拒否は人をゆるせないという性質を持ちます。その子がゆるせるようになると敵意が消えます。怖くなくなるから行けるのです。家庭で荒れなくなるのはゆるせるようになったからです。自分に敵を作っているのです。学力が遅れるから体裁は悪い。憎悪の正体は敵意。外が怖いのです。学校の先生がすぐ叩くから登校拒否になったのではありません。そういう先生はどの子でも叩くのです。登校拒否の子は先生が叩かないと分かると行けるのです。先生に敵意をもっている。敵陣に乗り込んで行く気持ちです。憎悪は誰にでも向かって来ます。カウンセラーにでも向かいます。危険な所へ行くようなものです。登校拒否児のところへカウンセラーは行くものではありません。そういう家庭では夫婦、姑の間にもさばきがあります。ゆるしが無い。そういう構造を持っています。
  ゆるすということは大変なことであります。ゆるした方が良いことは分かっていてもゆるせない。カウンセラーはこれをゆるせるようにしてあげるのです。一発でゆるせるようにならないことも多いのですが。奇跡のようにゆるせるようになることもあります。相当手強い場合でもゆるせるようになります。離婚問題で戻る可能性のないケースが幾組もあります。一回の面接でゆるせるようになるにはどうするか、ゆるせるような理由を教えるのです。理由が分かると自分も悪かったと認めます。ゆるせる理由を発見してあげるのです。「まだ見ない主人の弁解ばかり先生はした。私もなるほどと思えた」理由の発見は、じっと聞いて行動の解釈をこうではないかと訂正していきます。自分の思っていたことがガラガラとくずれます。おまえばかり悪いのではないと両方ゆるせるようになります。登校拒否の子は大体そういう線が強いのです。おばあちゃんとの関係、夫婦の関係が電波のように行き交う。それが解決しないとその子が行けなくなります。老人のほうが悟ったら、解決して直った例があります。敵意、敵ではないのにそれが消えると恐くなくなります。徹底的にゆるすとはそういう目付きさえもしないこと。そうすると以外に早く直ります。九分九厘でもだめで、その子の存在を喜ぶ、まず兄妹が仲良くなります。
憎しみは攻撃的です。そういう親は人を攻撃します。ゆるす家庭にはそういう例は出ません。中途半端はゆるさないのと一緒です。ゆるすとニコニコになり、ゆるすと恐くなくなる。「汝の敵を愛せよ」人間はその真似もできないと思っていましたが、敵をゆるすことは愛することです。雲の上の理想ではありません。現実にそういう例が一杯あります。現実離れの理想ではありません。高い規準を学ぶことができます。それが神のめぐみになってくるのです。

  学校の先生が恐い時、家庭環境が変わると受容できるようになります。カウンセリングマインドなどというそんなレベルのことではありません。放任とゆるしとは違います。ゆるしてから教えます。カウンセリングは親が八分、子どもが二分の割です。カウンセラーが信頼されると早く直ります。イエス様でも信頼しない人は直されませんでした。

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》講習会   (1989年3月3日)

カウンセラー養成講座 講習会   (1989年3月3日)

 「 子供たちに繰り返し教え・・・(申命記6章7)」「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。(コロサイ3章21)」「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。(エフェソ6章4)」 この個所は聖書における子育てが体系的に述べられた所です。別の言い方をすれば子どもを愛して育てなさい。子どもを愛して育てる時に子どもは怒らない、腹を立てない。一般的に肯定されている言葉ですが解釈においていろいろ分かれます。愛することの概念をとらえることが大事です。愛するとはそのものの存在を肯定することです。存在を肯定するとは存在を喜ぶ、嬉しく思うこと「 あなたが居るだけで、顔を見るだけで嬉しくなる」と言うのは愛の表現です。「 あなたが勉強をしっかりすれば嬉しいのだけれど」というのは条件が満たされれば嬉しいということで、条件をつけては愛していないことになります。
  「あなたの顔を見ると段々腹がたってくる」これでは子どもに私の愛情は無いんだよ、と表現していることになります。お母さんは愛してくれないんだと思わせます。「子どもを愛して育てなくてはいけないと分かりつつ愛するとはなかなか難しいことですね」と言う人がいます。「あなたと話していると話がかみ合わない。だから話したくなくなる」と言うとき私はあなたを愛していないという宣告を婉曲に言っていることです。 子どもを愛しているかどうか自分の現状がわかる出発点です。愛しているようなつもりでいるが子どもに聞くと分かります。 中三の女の子が「たらちねの ははのことばのうるさきに 口はわざわいのもと しゃべるなばばあ」と歌を作りました。これはお母さんの存在を喜ばない。愛情を持っていないよと、親が愛を与えてくれないからお互いさまだよと、いうことを言っています。真理をうたっています。互いに愛のある関係でないですよということば、こういうことで悩んでいる人がたくさんいます。 子どもを怒らせています。 愛でない育て方をしています。そういうふうにならないようにしなさいとエフェソ人への手紙に書いてあります。この女の子は母親の言うことをうるさいと感じています。母親は教育するつもりで言っているのかもしれません。ところが子どもはうるさいと感じる。 
「子どもをほっておいた方がよいでしょうか?」という質問が絶えず出てきます。「どうしたらよいでしょうか?」教えるのが良いのです。注意と教えるとは 表現が違います。子育てで注意する言い方と教える言い方の違いが分かると楽になります。この違いが難しい。教える言い方とは、因果関係を、或いは現状の認識を教えます。知らずに気が付かずにいるから教えるのです。現状を認識させるのです。「今何時ですよ」これは教えています。「今起きないと遅刻しますよ、間に合いませんよ」因果関係を教えました。「夜遅く帰ると危ないことが起こりますよ」教えることばです。「明日は雨になると天気予報が言っていますよ、傘を持って行かなくては濡れますよ」因果関係を教えました。「勉強をしてからテレビを見ると楽ですよ」と教えます。「だから早く勉強しなさい」と言うと叱ること、注意したことになります。教えた時にはまず「うるさい」とは言いません。「分かった、分かった」と言いますが怒らない。同じことを何度も言うと前の事を思い出して腹が立つ。感情転移です。命令形で言うことは罰を与えていることです。罰を与えられれば腹が立つ。罰は相手の自由を制限することです。命令形で言うのは罰の本質です。まだやらないうちに命令する。命令形の本質はいくら「ございます」言葉で言ってもだめです。注意や叱る事は皆命令形です。
  集団に対して言うときは命令でなく教える事になります。一般的に言うときも裁きでなくなる。それが面白いところです。だから聖書の中に命令形が出て来る時、裁いているのでなく教えていることになるのです。多少裁くにおいがするかもしれないけれど、大勢に対して言われるから分散し、多数の人に言われた時教えることになると理解することができます。今から20年前先生方の研修で、命令形はいけないと言ったとき先生方は困ってしまいました。抵抗を感じました。その時は勉強不足でよく答えられませんでした。あれでは先生方は困るな、救いがないなと後悔しました。
先生はいつも裁く言い方をしているので、家でもその口調で話します。先生とか保母さんの子どもの親がよく相談に来ます。学校と家庭を混同して命令系のやりかたをするからです。個人に対するとき命令形はいけません。立派な先生が間違えます。子どもが怒ったら自分のやりかたがおかしいのだと反省する必要があります。怒らせる環境があるから怒るので、そういう環境がなければ怒りません。怒る子どもは全部環境が悪いというと納得いかない場合もあります。それは相手のしていることに行動の解釈を誤解して、怒る場合があるからです。誤った認識をする。怒られている人に落ち度があるのではなく誤解して怒っているのです。その場合には自分が勝手に怒っているのです。そこのところでおかしくなっている事例もあります。誤解を解いてやると謝ることがあります。環境に問題のあることのほうが多いのです。どっちに原因があるかを見分けてアドバイスをします。 
親が反省しても子どもが昔の行動を改めない場合があります。それは親が変わっているという認識が子どもに無いからです。解決に時間がかかることがあります。親は変わったが子どもの認識がずれて時間がかかるのです。認識したときに子どもがガラッと変わります。本に挟んで封筒に入れてお金をあげたとする。その子が本を読まないで、一年経って開けたという例があります。一年のずれがある。認識にずれがないようにする工夫がいります。何かで子どもに表現し、伝えないと認識は変わりません。工夫が足りない場合は大分ずれてきます。どういうふうにしたら愛が伝わるか。愛ということだと分からなくなるので「相手の存在を喜ぶ」「相手のして欲しいことをする」「ニーズを満たす」。愛とは自分の子どもの顔を見るだけで嬉しい。そばにいてくれるだけで嬉しい。それが愛です。愛には条件つきはありません。愛することとは何かをしっかりととらえる。それをクライエントにはっきり教える事がカウンセラーの第一課です。愛そのものが何か、はっきり捕らえていないと曖昧になってしまいます。
  小学校二年の女の子が、名古屋から駅の改札を抜け無賃で京都のおばあちゃんのところまで家出をくり返した例です。そのお母さんに「お母さんは可愛がっていますか?」と聞きました。「いいえ、親からそんなことを言ってはおかしいのですけれど、私はこの子を愛する気になれません。いつか私の具合が悪くて寝ていて、ごはんの支度をしてちょうだいと頼んだとき助けてくれました。その時隣の人が、あなたの子がこう言ったよ、家のお母さんは怠け者で自分は寝ていて私にご飯を炊けと言うのよ。それから腹が立って憎らしくなりました」。もうゆるせない。その嫌いな隣の人にそんなことを言って。隣の人と家の子は気が合うのかしら。それがしこりになり、お母さんはその子をゆるせないと憎らしくなり、根に持ち、注意ばかりするようになりました。子どもはそれを感じてこんなところには住めないと思いました。それをカウンセリングする場合どうするか。子どもはお母さんが寝ていて「支度をして」、と言ったとき自分はぬくぬくと寝ていると思うと腹が立った。「頭が痛かったから子どもにそんな支度をさせました」「お母さんは頭が痛い、とひとこと言えば誤解しなかったのです。ひとこと足りなかったから」それを聞いてお母さんは初めて泣きました。子どもが誤解したと分かったとき謝まりました。そのケースは解決しました。
ひとこと多いとは裁く言葉が多い。ひとこと足りなくてもおかしくなります。お母さんは子どもに小遣いをやりながら「もうこれでやらないよ。勉強もせずにお金ばかり使って」。気持ちよく与えるのが愛です。「無駄遣いしてはだめよ」と言うのが言葉の無駄遣い。カウンセラーは本人が気がつかない点を教えていきます。治療と同時に教育の仕方を教えるという知識を身につけることが必要になってきます。クライアントが相談に来たとき、「それは間違っていますよ」と言う言葉はいけません。「叱る時はうんと叱る。褒める時はうんと褒める」と言ったとする。「それは間違っていると思いますよ」と言う。裁いたのではなく教えたのです。命令形で言ったり「どうして・・・しないの?」ということは裁きです。因果関係を教えると自分の行動を反省します。抽象的に「それは親が悪い」と言うと責められるだけです。親をゆるして教えて行く。子どもをゆるして教えて行くと納得していきます。
  「愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ・・・。これらすべてに加えて愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ2章2、3章14)毎日カウンセリングを続け、40年かかってやっとほんのわずか進歩しました。ほんのわずかがなかなか進歩しないのです。胸突き八丁まではすーっと来る。裾野が長いけれど少しの努力で『十字路に立つ子ら』まで来ました。それから40年たちました。道案内をしてくれる人があるとそんなにかかりません。40年を1ヶ月か2ヶ月で教える使命があると感じています。一番近い道を皆さんに話しているつもりです。

《午後のお話し》
  理論的な、大学で臨床心理学を話すようなことを考えて来ました。国立や私立大学で講義をして来て最近まとまったことを、今朝の1時から3時までかかって準備しました。その中での大事なことを話します。
カウンセリングとは、人間関係の問題を持って悩んでいる人に、精神的な問題、恨まれている、憎らしい、許せない、現実にはできない「ならぬが堪忍、するが堪忍」を、それができるように助けて上げることです。できない人ができるようになる。責任をクライアントに押し付けてはいけません。決定的に責任が持てるのは全能の神のみです。聖書には「あなたにも同じようにできる」という励ましが書いてあります。それができる人が信仰の厚い人であるとあります。「疲れたもの、重荷を負うものを休ませて上げよう」「私を信じる者は私のすることができる」と書いてあります。「かつそれよりも大きいことをすることができる」イエス様と同じことが出来るのか、それよりも上ができるとある。励ましだろうと割引をします。実際に同じようなことができます。従順な信仰の人のことだと近ごろ思うようになりました。
信ずる者とは神様、神様、とお祈りする人のことでしょうか、そうでないと書いてあります。私のいましめを守る者が信ずる者、キリストがこうしてごらん、とおっしゃっているのだからそのようにやろうと思う人が信仰の厚い人と定義してあります。皆に聞こえるように祈ってはいけません。と書いてあります。いましめの中で一番大事なことは、「私があなたを愛したようにあなたの隣り人を愛しなさい」このいましめを守る人が信仰の厚い人と定義してあります。非常な悩みを持って誰かの助けを求めている人、その求めが自分に聞こえたり、目で見えた人、現実の私たちの生活の中でかかわりのあるかわいそうな人、悩んでいる人、その人が隣人です。出会いの中でかわいそうな人に会う。良きサマリヤ人の譬えにあります。それを私は命じているとキリストがおっしゃいました。求めていない人に伝道するのが愛でしょうか。求めていない人に押しかけて行く、その人はありがた迷惑だと思います。私のいましめを守る者には奇跡ができる力を与えよう、それよりも大きなことができる。と励ましてくださいました。私はその経験をしばしばするようになりました。自殺をしようとした人が「助けて」と来ました。その人は生まれ変わりました。切に求めた時には人間も動く、山も動くと聖書にあります。そういうようなときにイエスのなさったような奇跡が起きてきます。みことばが誇張でないと思えるのです。そうは書いてあるけれど、と思うことが不信仰なのです。信じる者には誰にでもできる。 
あなたが地上でゆるすことは、天においてもゆるしますよ(ヨハネ20章23)と書いてあります。盗み常習の子でもゆるしてやる。その時その子は喜ぶのです。信仰体験と同じです。「私を信じる者には平安を与える」とあります。平安とは、ニコニコ顔になる。こうなりたいと思った顔になります。自分の都合の良いところだけを拾い読みするのはいけません。あなたが地においてゆるすと同時に、天の父もゆるされる。信仰あるカウンセラーにゆるされた時、同じ体験をするのです。その人が神に出会ったような体験をします。そうするとその人は、「まるであなたは神様みたいな方だ」、と言われます。イエス様と同じことをするからです。イエス様ではないか、と思うようなことができるのです。昔、聖書を読んだとき「心の清い者は幸である。神を見るから」とのみことばを思想、哲学のように考え、長い間解けませんでした。心の清い者とはどんなことか。人間は皆罪人です。罪人でない人はいない。バウロは悪い人だったに違いない。そんな悪い人を神はとらえた。お前のやっていることは間違っているよ、と全部ゆるされたのです。罪人のかしらとは、パウロが謙遜して言ったのではないと思うのです。ゆるされると清くなる。すると神様が見えるようになります。ゆるされない人は神が見えません。理想論が書いてあると昔は思っていました。現実論です。ゆるされれば清いと書いてあります。神の選びは完全です。みことばが分かりました。子どもでも乱暴な子どもでも、その人をゆるすと清くなってきます。ここがカウンセリング理論になってきます。子どもをゆるしてやると心が清くなり、行動が変わって来る。新しく生まれたような行動の変化が起きてきます。本当に変わります。「不思議ですね」と皆が言います。パウロは求めたのではないのに神に捕えられてゆるされました。努力して求めた人より感謝が大きい。永遠を見通す全知全能の 神様が選んでくださったのだという喜びが生じます。そうなるのが一番好ましいことです。「神様を信じなさい」と言葉で言っても分かりません。「目をつぶって祈りなさい」違います。愛を経験したときに現実に愛なる神にお目にかかる。それからはもう疑いもなくなります。説明しようと思ってもできない、そういう愛のお方に出会った、そういうお方がいつも側に居て守ってくださる。それが分かった時に平安になるのです。永遠に。
あのときの失敗があったからすべてのことが分かって益となった。あのみことばが感謝になる。明るくなる。輝く。勇気が出てくる。瞬間に子どもが直ってしまう。「すべての罪より我らを清む」借金を返さなくてもよい。それを信じる人が信仰の厚い人です。何もしないのに無条件でゆるしてくれる、そんなうまい話はこの世にありません。人間にはそんな愛はありません。神の愛のみです。その神を信じて愛を体験するとあなたにもそれが出来るようになります。私があなたを愛するように、あなたも隣人を愛しなさい。私があなたをゆるすように、あなたもゆるしなさい。それが信仰の厚い人だという定義です。その外に信仰はありません。奥さんが信仰に熱心で子どもがおかしくなった例があります。「主人が教会に行かないから」と責める。しかし聖書には妻が信仰すればその信仰によって夫が清められる、と書いてあります。主人はそれを見て「ああ楽になった」と言いました。ゆるされました。罰する神だと思っていたのです。聖書の読み方を間違えているのです。「あなたが教会に行かないから子どもが直らないのだ」と言われてきたのです。
イエス様が十字架にかかられたとき「彼らは自分がしていることが分からないのです」無知という理由で人類をゆるされました。人間は新しく作りかえられる。愛は人間を新しく創造する。愛の外に神は無い。愛は人間を作りかえていきます。頭の悪い子がよい子になる。愛すると良くなる。神様の愛が解ったとき途端に頭が良くなる。神様の恵みによるのです。
  人を軽蔑してはいけないとみことばにあります。その引き合いに自分を誇ってはいけない。登校拒否、留年、私も同じようなことをやってきたなと思います。それなのに今日の私のようになった。二回も落第しています。そういう中から立ち直っています。それがあるから落第生の気持ち、親の気持ちがわかるのです。私のことを教育界に彗星のように現れたと言われました。今までに一生懸命に信仰したことはないのです。行人坂教会に行ったリ、行かない時もありました。みことばが直接神様の声のように聞こえて来ます。そのときにスッと響いて来る。そういう信仰です。聖書のみことばは解らないことが一杯あります。解った言葉だけで良い。たくさん知らなくても。ひとことでも良い。物知りにならなくても良い。だんだん解って来て失敗してうまくいかなかったことも全てがプラスになりました。
登校拒否がどんなに辛いことか人は理解してくれません。召されたもの、神様が目をつけてくださった者には全てのこと相働いて益としてくださる。ここに来た人は神様が目をつけてくださった人です。愛することのできる力を与えてくださいます。「神様、愛することができません。力を与えてください」と祈るときだんだん開けてきます。簡単に教えられるようになります。叱らなくてはいけないのではないか、何か言わねばいけないのではないか、そういう理論に頭が洗脳されています。それが違うという理論を立てました。「子どもを甘やかしてはだめだ」とたくさんの人が言います。決めたように皆が言います。そうではないことを理論的にも実際的にも証明できます。叱らずにゆるすということは愛。神は創造主。無から有を創るお方。愛の中に創造主の力が入るから。創造。(CREATION)創造主の力は人間には解かりません。心をそういうふうに変えるのは創造主の力です。愛を正確に捕らえることが大切です。

叱るのも愛、罰するのも愛だと、愛でないものも愛の中に入れてしまいます。愛の概念の乱れです。中身なしで愛を使って議論しています。褒めること、ありがとうということも愛です。叱るは愛の反対です。十字架の教えはゆるす愛です。神の一人子の犠牲を払ってゆるすことは愛です。実際生活の中ではゆるせない事が多い。ゆるす愛は難しいが私はできる、それは自分がゆるされたからです。みことばとカウンセリングの関係で語られるのはあまりないことです。

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》(第1次講座 第6回)1988年11月24日

(第1次講座 第6回)1988年11月24日

   戦いのない苦悩はありません。守るも攻めるも苦しい。心の葛藤と学問的には呼んでいます。カウンセリングを求めて来るクライアントはこの重荷からの解放を求めています。人から責められているということを聖書では裁かれているという言葉で表現しています。裁けば裁かれる、と聖書にあります。裁けば裁かれるのが必然の法則であります。この法則を打ち破るもの、逃れることのできるものは無限の力を持つ愛しかありません。それゆえ「聖書には神は愛なり」とあり、「愛は神から出るもので、愛する者は、みな神から生まれ、神を知っているからです」(ヨハネの手紙14章7)と書いてあります。真の愛は神より与えられたものゆえ、必然の法則を破る無限の力が愛にはあります。愛には親切という面と寛容という面がある、と聖書にあります。ある角度から見れば親切であり、別の面からは寛容である二つ大きい側面であり、二つの愛があるわけではありません。『そのものの存在を肯定し幸せを願う』という二つの側面です。人は愛というものを、人の目によって、視覚によって捕らえることができるように神はしてくださいました。それは柔和です。愛ある顔は柔和です。幼い子どもでも愛を目で見ることができます。聖書に記されているみことばからの解釈です。
  人から責められ裁かれる。すると裁き返しをする。それは敵に対して自らを守ること、防御の姿勢ができることです。物理的にできてきます。心の中に攻防戦が起きているときに人は苦悩してその戦いに疲れます。内心における戦いであります。しかし、その戦いはゆるす愛によって止むのです。これを愛による和解、神による和解ということができましょう。その時に平安という安らぎが訪れます。突如として訪れるものです。そのとき人は「ああ楽になりました」と言います。「重荷が取れました」と言います。「すっきりしました」と輝くような顔付きで言います。その人の顔は柔和になります。その人の中には敵は無くなり、愛のみがあるのです。 
そのような言葉はいわば休戦条約を結んだ人のことばで、労を取ってくれた人にありがとうと感謝の言葉が出ます。その愛の源である目に見えない神に対して、たとえそのとき神という言葉を知らなくても、ある清きものに対してこのような安らぎはあなたから賜ったものです、と思うのです。そのとき人の目に神が見えて来るのです。神があるならこの方が神である。と分かるのです。そしてこのようになったのは神の恵みによるという賛美が口をついて出て来るのです。苦しかった過去のあのことも「これによって神の栄光が顕われるためである」と言われた神のみことばに対して「その通りでした」と限りない感謝をもって言うのです。「これによって神の栄光が顕れる」というまだ解決しない時に与えられたみことばをもういっぺん振り返ってみるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28~30)というみことばが成就するのです。つけ加えて思い出すみことばは、人間にはできないか、という問題です。人にはできる、と驚くべきみことばが書かれています。「わたしを信じる者は、わたしの行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(ヨハネ14章12)ここをお見落としのないように、と言いたいのです。「もっと大きな業ができる」とていねいなみことばが加えられ、励ましてくださいます。主イエスさまより大きいことができる。遠いかなたのみことばでなく現実のみことばであります。ここで定義があります。信じるもの、信じるとは「私のいましめを守るもの」 
主の最も大きいいましめは、私があなたを愛したように、(ゆるしたように)あなたもあなたに接触する人を、かかわりある人を愛しなさい、ゆるしなさい。
「私があなたをゆるしたように」「私はゆるさないがあなたはゆるすんだよ」 と言わないで。私があなたをゆるしたようにとは主のいましめであり、教育であります。主からゆるされたという確信のない者はその言葉が宙に浮いてしまいます。人の悪口を言う人は内心に責められる物を持っています。責める人はかわいそうな情況にある、人と神から責められているかわいそうな人、だから人の悪口を言います。それによってその人が責められているということが分かります。ゆるす、ということばは神からゆるされた人も、お母さんからゆるされた人も同じです。「すべての愛は神より出ず」とあります。間違いないようにと念をおしてあるのです。
 親子がカウンセリングに来た場合、両方が責めあっています。「ゆるさない」どっちもどっちで攻防戦を展開しています。家庭内暴力は防御が攻撃に転じたものです。子どもに力がついてくるとそういうものを持ってカウンセラーのところに現れてきます。お母さんは子どもの悪口ばかり言っていて、どうしてそうなったか気がつきません。どっちが先かというと親のほうが戦闘を開始したがります。子どもが攻撃に転ずるのは親が訓練して攻撃力を仕込んでいったのです。カウンセラーが「子どもがこんなになったのは親のしつけが悪いからだ」と言ったとします。すると親はひたすら防御しようとします。腹がたってくる。カウンセラーはそんなことを言いません。にせカウンセラー、カウンセラーの名を呼称しているだけです。
カウンセリングをするようになって40年。真剣に一生懸命やるようになって、それで私のカンウセリングができるのです。本当のカウンセリングを学ぶのに、今日一日だけで私のカウンセリングに達することができます。道がきちっと分かっている人に聞けば早く目的地に到達します。40年もかかる必要はありません。横道に入らず早く分かります。40年近く前、戦後に学校教育の立場にあったのを捨ててカウンセラーとして転換しました。管理職、講壇を捨てて飛び込みました。かわいそうな子を救おう。派手でない、人を指揮するのではない、命令しない、自分が一人で勝負する。それがカウンセリングの仕事です。一見華やかに見える校長の職から一大決心を持って選んだのです。その時に名古屋大学教授、精神科医堀要先生と一緒に書いたのが『十字路に立つ子ら』です。駆け出し時代に書いたものです。堀先生が伴奏をつけるから書くようにといわれました。手探りでこわごわやったカウンセリングでした。〝ノンディレクティブ・カウンセリング″アメリカのロジャースの方法が入りかけていた時です。
クライアントと対話するとき「命令形を使うな」ということ。「お母さんに叱ってはいけない」とか「指図するな」とか画期的な理論でありました。日本の教育界に普及したという功績はあります。理論的に整然と書かれたその頭の良さに驚きました。ロジャースの方法を突き抜けた、それが聖書のみことばに基づく理論です。それに基づくカウンセリング。カウンセリングを一生懸命勉強するほど聖書に打たれ、イエスは神の子であるとの確信が強まりました。パウロは「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる」(Ⅰコリント1章20)と言いました。そのことばが私の心に迫ります。私が学んだ近道をあなた方に教えようと思うのです。私は遠廻りをしました。皆さん方は二度と遠廻りをしないように。当時ベストセラーに近く良く売れました。京都大学文学部は心理学の日本のピークですが、そこの先生が絶賛しました。京大挙げて絶賛しました。坂西志保氏が朝日新聞に書きました。
〝いろいろな学説があります。果たしてそうでしょうか、そういう人に読んでもらうために伊藤先生が書かれました。それを読んだら目が覚めるでしょう″と。その書物を今見ると考えかたに欠陥があります。その時には精一杯でした。劣等感、優越感があの本には出てきます。精神分析派のアドラーが言った大事な論で、私はよく読みました。ところが間違っているということが分かってきました。ある意味での功績はあったが大事なところに来ると取り入れることができません。それでは救われない、行き詰まるという思いです。

  登校拒否の、精神病ではないかと思われた子どもが一瞬に治った。堀先生も驚き、目を見張りました。そこでだんだん分かったことは聖書は真理だということです。イエスさまは神様だということです。聖書の真理は人間の限界を越えている。それが分かりました。その次に私は自信を持ってきました。日本のピークにある方から激賞されました。たまたま国連の顧問のキャロルという方が学会の指導をなさった。そこである学者から世界的レベルの学者と褒められました。大きく新聞にも取り上げられました。英訳され全米の学者に紹介されました。その次に書いた本が『子をめぐる愛憎』です。題に抵抗がありましたが堀先生からの勧めでした。メニンジャーの「人間の愛憎」という本からヒントを得てそう言われたのではないかと思います。その本が一番有名でしたが、出版社と手持ちに一冊あるだけです。『中央児童福祉審議会委員長文化財推薦』法律に基づいて推薦された私の本の中で一番有名になりました。子育てのことを書きました。教育の大きな事例、一人のかわいそうな女の子のことを書きました。長編を書きました。そこから40年、その時期を振り返るとやっぱりはっきり分かっていなかったところがあります。子どもがそうなるのはお母さんが悪いと書いたところがあり未熟でした。お母さんを裁いたのです。そこに気付き、そこから今の理論が確立したのです。

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》(第1次講座 第5回) 1988年10月27日

(第1次講座 第5回) 1988年10月27日

問題を持って悩んでいる人がクライアント。それに立ち向かっている人がカウンセラーです。悩みを解決するための対話がカウンセリングです。子育てにおけるカウンセリングの問題を中心に講義を展開していきます。それは人間関係の悩みを解決することでもあります。大人の問題の解決に役立っていることはいうまでもありません。
どういう場所が良いか、他の雑音の入らないところ、声がほかに聞こえないところが良い場所です。面接は親だけに会う場合もあります。親だけに会っても子どもの行動が変わり成功することがあります。子どもの行動は環境によって変化するからです。環境には自然物理的、文化的、社会的環境があります。カウンセリングの場合、社会的環境に限定しています。人の行動は環境が変わると行動が変わるという法則があります。好ましい方向に向くために子どもの環境を変えていくと成功します。両親に会って対応することによって好ましい環境に変えていきます。今まで始終叱っていたのを止めて褒める方に変えるとき、子どもの環境が激変します。両親に会って子どもへの対応を変えてみるようにすすめます。それに成功すると子どもに会わなくても子どもは全く変わってしまいます。  
親に会って話すとき、時々真実が伝わっていないことがあります。故意にではなく、まちがっているのです。そこで子どもに面接する必要の生じることがあります。カウンセラーのところへ親が子どもを連れてきます。連れてくるということは大変なことです。「ハイ」といって来る場合はまれです。子どもを連れて来ることができるのは、半分ぐらい良い人になった時です。子どもから見て愛してくれる人、少し愛してくれる人、そのような段階でついてくるようになります。手と足を縛って車に押し込んで無理やりに連れて来た例があります。問題行動の子どもはみなお父さんお母さんが嫌いです。なぜでしょうか。愛してくれないと思っているからです。お父さん、お母さんが嫌いなカウンセラーなら行っても良いと思うのです。
感情転移とは、ある人に感情が向けられたとき、似ている人、関係ある人に向かいます。お母さんが良い人だと言う相手は信用しません。人類はみなそうです。両親と一緒に相談に来たときは最悪の状態ではありません。どうしても来ないケースが半分以上です。お父さんお母さんが子どもへの対しかたを変えたとき、初めて子どもはついてきます。そういう子どもに「良く来ましたね」と褒めます。するとたいていの子どもは同じように答えます。「僕は厭だったけれど、ここ2、3週間お父さんもお母さんも優しくなった、だから僕も言うことを聞いたんだ、親が良くしてくれるのに言うことを聞かないのは義理が悪いでしょう」と。
  心理学的に子どもの行動は環境と相関関係にあります。それに反することは存在しません。子どもの行動に見合う父や母が家にいます。「小さいときから強情で、多分生まれつきでしょう。あの子は丑年の生まれだから」一般的にそう考えますけれど違います。「お母さん、それはどういう気立てですか」「私も強情です。私も小さいとき親からおまえは強情だとよく言われました」カウンセラーは判断の間違いを訂正していきます。「それは関係ありません」「そうですか、関係ありませんか」。確信を持ってはっきり言います。血液型と関係づける人も時々います。はやったことがあります。そのカウンセリングの流れが今でもはやっているのです。  
2+2=5ではありません。事実認識、因果関係を訂正することは裁くことではありません。「違いますよ4ですよ」と訂正します。「どうして5になるのですか」と言うと裁くことになります。紙一重の差です。教える言いかたと、裁く言いかたとは表現方法が違います。それを混同しないことです。「タバコなんか吸うんじゃない」裁く、叱る、怒る、注意する、同じ系統です。タバコを吸う子どもには「タバコを吸うと大事なからだが悪くなりますよ」因果関係を教えたのです。「それをやると法律違反で先生に、お巡りさんに叱られるよ」注意ではなく教えたのです。「タバコをやめなさい」命令形で裁いています。クライアントは間違った考えをどんどん正していきます。その都度〝I think″「違うと思いますよ」と訂正していきます。「どうしてそんなことを言うの?」は裁いたことになります。
 「 難産でしたか?安産でしたか?生まれた時喜びましたか?」「仕方なく産みました」仕方なく産んだ場合、子育てが難しくなります。その子に対して良い感情を持たないことがあります。その感情が続くとき愛情が欠けてきます。「いいえ、あんまり嬉しくありませんでした」と話すことが時々あります。なぜ嬉しくなかったか、「大嫌いなおばあちゃんにそっくりでいやだなあと思いました」。 姑に向けた感情が子どもに転移するのです。心理機制といい、心の仕組みで、防衛機制ともいいます。心を守る、反射的に警戒する。自己防衛、自分を守るために人間関係においても毒きのこから身を守るような働きがあります。「なんとなく小さい時から嫌いでした」という親がいますが、気が付かずに虐待します。なぜなんとなく嫌いになったか、もとの所を追及していきます。途中で姑との関係が出ることもあります。おばあちゃんがかわいがると憎らしくなってくる。家庭が円満でないとおかしい子ができるとはそういうことです。家庭の愛情問題が子どもに波及します。
悪い行動をしている子どもが叱られるとき、だれもその子の言い訳を認めてくれない。カウンセラーは悪い環境を救ってくれたから子どもはカウンセラーに感謝します。中学生がうらみを先生に抱いて眠れず勉強もできなくなっていました。その子が手紙をくれました。「私のカッカとするうらみの炎を先生は消してくれました。私はやっと落ち着いて勉強することができるようになりました」カウンセラーはうらみの炎を消す消防士の役目をします。
  遺伝ではないものを遺伝と考えます。盗みの筋ではないか、そっちの筋を引いたのだと一人でそう思い悩んでいて、それをカウンセラーに言うようになります。「なんでも本当のことを隠さないで話して」とそんなことを言うと余計言わなくなります。言えと言うのでなくこのカウンセラーは今まで会った人とは違う、優しい人だ。今まで会ったことが無いと思わせる対話を続けることが大切です。こういうふうに思えるようにする、そこが一番の秘訣です。どうすればそうなるか、それはクライアントの言ったことを決して裁かないということです。善悪の判断をしてとっちめない。小さい時から叩いてきた。私も小さい時から叩かれてきて今度は自分のやる番だぞと、そういう思いが心の奥にあります。意識的にはやっていないがその論理でないと解決できません。「私は叩かれてきたけれど社会的には責任ある立場についているし、どうみても平均以上の人間になっているではないか。あの子が叩かれてそうなったというのなら、何か生まれつきの原因があるのではないか、あんな子を生んだと思うと腹がたってたまらない」と自分自身解決がつきません。「それはご立派なことですよ。今あなたがご自分の子どもにそれをやってあなたのお子さんは平均以下の子どもになっているでしょ、あなたがやってこられたからこうなったのです。お父さんが厳しくあなたを叩いたというけれど叩きっぱなしでは今のようにはなりません。あなたのお父さんは優しくはありませんでしたか?」「優しかったです」「それではあなたのお母さんはどうでしたか?」「お母さんは優しかったです。お母さんは甘いからと、お父さんに叩かれました。お母さんは底抜けに優しかった」「あなたは毒のようなものを飲んだけれど、毒消しをしたのでそれで消えたのです」「今初めて分かりました。やっぱり叩いてはいけませんね」それでバタッと子どもが変わりました。
「おまえが甘いからこういう子になる」「おまえもけじめをつけて叩け、それでなければ母親の甲斐がないではないか」「きちんとけじめをつけろ」「それでお父さんと同じように厳しくしました」「そんな子はみんな非行に走ります。だれが生んだのです?」答えようがありません。訂正していくのです。今のようなやり方で。そのお父さんは長いこと間違えていました。そういう面で頭が良くなかった、ある方面で抜けていたのです。理論を持っていないと説得できないのです。何年たっても解決できません。カウンセリングマインドの理論を打ち立てました。誰でもそういうところをたどっています。間違ったところを訂正していきます。タイミングを外さないようにその時にするのです。「あなたが子どもを叩くのはあなたが叩かれてきたからです」「そうです」子どもを叩いて育ててきて、ぐれて初めて責任を感じるのです。たいていの子どもは「今更そう言っても遅いぞ、僕の18年の生涯をどうしてくれる。生まれ変わらなければ出来ないではないか」子どもは悩んでいるのです。親はノイローゼになり、子どもはゆるしてくれない。それをカウンセラーは始末をするのです。
  お父さんに対して「あなたのお父さんはそうすれば子どもが良い子になると思って叩いたのです。あなたも自分で良いと思い込んできたのですね。あなたは知らなかった、あなたの無知がやったのだ、人間は知らずにやる。あなたが悪いのではありません。悪意でやったのではないから。知らないで誰でもやっています。あなただけでありません」「神様は無知でやったこと、知らずにやったことを赦してくださるのです。イエスは父なる神に祈られました」。このように聖書に導くことができるのです。イエス様はそう言っておゆるしになった。そういうことばで軽くなるのです。
子供が10万円くれと言ったらポンとやりなさい。「たったこれだけで良いか」と言って。私を信頼する人はみなそのようにやってきました。あんな恨みを持ってお父さんを責めていた子どもが「お父さんも悪いけれど僕も悪いということはみな知っている」子どもはすっきりとお父さんをゆるすのです。お父さんの決心を認めて子どもがゆるす。両方がゆるしあう。劇的です。  
いくつもの例があります。愛という花が咲くのです。暗黒が深ければ深いほど光は明るいのです。カウンセラーはそういう場面を幾つも見ます。犠牲が深ければ深いほどそれに代わる真理を得て帰ります。叱ってはいけない。裁いてはいけないと知っていても自然にそうなってしまう人が多くいます。「この叩く手が止まりません」「人間とはそういうものです」と私は言います。「あなたばかりではありません。それはあなたのせいではありません。あなたは自分が叩いたと思うから苦しむ、それはあなたの中に虫がいる。それは怒り虫、虫の居所が悪いとあばれます」自分自身で苦しんでいる人をゆるすことばを与えます。「多分居所が悪かったのでしょう」八卦よみのように、学者のようにことばを相手によって変えてみるのです。親を責めてはいけませんし、学校の先生を責めてもいけません。
  あなたの家の子どもだけが登校拒否をおこしている、と言われればなんともいえないでしょう。「家の子はよそのお子さんと違って気が弱く、先生を恐がっています。何とか助けて下さい」そのとき先生を責めない「そうか気が弱い、それでは他の子どもと扱いを変えてみましょう」。「褒めてください」やっつけることば裁くことばを止める。どうしてよその子は叱られても叩かれても学校に行けるのか。一番大きい理由は親が子どもを育てるときにとっちめず叱らず裁かない、それに近い育てかたをしている家の子どもは登校拒否をおこしません。先生が恐い、なぜ恐いかというと先生に敵意を持っているから、先生をかたきにしているからです。許さない、敵意が強くなるにしたがって恐くなるのです。ゆるす理由を見つけてゆるすと敵意が消えます。子どもが親から愛情を受けているかどうかを試すのに「お父さんは恐いか、恐くないか」と聞きます。お父さんお母さんの愛情の程度を知ることができます。恐さの程度をカウンセラーは勘ではかります。愛情と反対のもの、その程度に比例して悪い行動が起きてくると心理学では言われています。
愛情の度を計る体温計は、なぜ愛情が冷えたのか、あるときどんなことが起きたか、成育歴はどうか、成績のこと友達関係、先生との関係、人間関係、家庭では、兄弟はどうか、記録にとっていきます。二回目の時はまだ聞いていないことを聞いていきます。お父さんと子ども、お母さんと子どもの関係、何らかのゆるしていくことばを与えなければ肩の荷が下りません。帰る前には必ずゆるしの言葉を伝えます。「肩の荷が下りました」「やってみます」「楽になった、希望が出ました」こういうことばで閉じるのが本当のカウンセリングです。聖書のみことばを入れて行くことにしています。ピタッとみことばが決まるとき「そうですか聖書に書いてあるのですか」と受け入れます。そのみことば一つでその人の心の中に信仰が入るのです。愛、みことばはみな愛。「愛の外に神は無い」

《午後の講義》
 すべての行動は場の関数、人と環境の関数です。子どものある行動は環境との相関関係を持ちます。環境を抜きにしての行動はありません。盗み、登校拒否、子どもがいけないのだと単純にいい切れません。その理論から子どもの良くない行動をゆるす理由が生まれてきます。ゆるすことができるのは理論的な背景です。ゆるさねばいけないと思ってもゆるせなくなるものです。場は人と環境です。人が変わっても環境が変わっても行動が変わってくるのです。人が変わるということも有り得ます。橋のふもとに白い幽霊が出るといううわさが立ったとします。そこを通る子どもはみな恐がります。幽霊が出るという環境だから子どもは恐がる。昼間見たら白いすすきだった。幽霊に見えても錯覚であったと分かると、環境は変わらないがその人は変わります。客観的な環境がその人の見方で変化するのです。人間関係でもそうです。「私が勘違いしたのです」人は変わらなくてもお父さんお母さんが変化すればその子の行動は変わります。両面から変わるのは確実です。
近代心理学者は、あなたの心がけが悪いから直すのだ。うそを言うな、とその子の行動を直そうと長い間考えていました。あなたの心が悪い、と長い間人類の歴史は努力してきました。環境を変えればその子の行動は変わることを発見したのです。その上に立ってカウンセリングの理論が展開されています。盗みをする子、勉強嫌いの子が良くなる。生まれつきの勉強嫌いの性質(たち)はありません。いかに愚かな考えかを科学が証明しました。うそを言う子はうそをいわなくても良い時にうそを言う。そういう子はうそを言わなくてはならないような環境にいるのです。心がけが悪いからうそを言うのではありません。客観的な環境はうそを言わなくても良いのにどうしてうそを言うのか。客観的な環境でなく心理学的環境で行動しているからです。両環境のくい違い、親の方と子の方とのくい違いを見いださなければカウンセリングはできません。 
環境に対する認識に誤解があります。その人の見えた環境において行動する。自分を守るためにうそをいう。不利にならないようにうそを言うときは警戒しているときです。まずうそをいって逃げる。見えた環境で行動しています。家裁で非行少年を調べました。検事の調書を裁判所は事実確認をします。どうしてそういう行動が起きるようになったか。調査官はそれを調べます。どうしたら直るか、どう処分治療するか調べます。
子どもの事件は、治療する立場から考えます。罰の立場からではありません。大人の刑事事件は、バランスを考えて罰を与えます。少年事件の審判は暖かく、前科にはしません。寛大な処分、何故かといえば子どもが原因ではないという認識で、処分されるとすればその環境ではないかという認識からです。
  両親、祖母殺しの事件がありました。夜遅く日本刀を持って駅を降りてきた16~7の少年を刑事は疑いました。住所、氏名、生年月日を聞きました。警察電話、専用電話で。本籍地を調べました。2~3分でそんな子はいない該当者無し、出身校も該当者無し。本当の話をしなさいと言ってもガンとして言わない。拘置期限が来て検察庁から家庭裁判所へ。検察庁は困りました。少年は家庭裁判所へ送られません。全部虚言で第三国人と推定されると調書に書いてありました。家裁で担当しました。手錠がはまっている。君のなまえは「~です」「~ですね。生年月日は、父の名は? 母の名は?」 警察でも検察庁でも同じことをピタリと言う。頭のよい子だと思ったが、かわいそうな育ちをしたなという思いがありました。嘘をいうような家庭で育ったのだな、虐待を受けたのだな、徹底した嘘を自然に言える。一生懸命涙が出てくるような感動でそうか、そうかと40分ぐらい書きました。そうしたら突然ワーッと大声をあげて爆発的な声をあげて泣き出しました。静まってから「どうしたの?」と聞いたら「先生のように良い人にまで嘘を言うようになったかと思って泣けてきました」「先生は良い人か?」「良い人です。良い人です」とワーッと泣きました。「私はそんな良い人か?」と重ねました。「私は褒められて嬉しくなりました」とその子を私は褒めました。「今まで言ったことは全部うそでした」と泣きわめきました。ちょっとやそっとでは動じない子です。意志も強いしっかり者です。愛の前では到底とびらを閉めておくことはできません。親切と寛容という愛があります。私はその人をゆるして聞いていました。そんな環境に育てば誰でもそうなるという思いで聞いていました。そうか、そうか、かわいそうにと、話したことを疑わないで聞きました。環境と行動は関数関係であります。
  正直に言えないという環境にありました。環境を変えると行動が変わるという証明です。「君は本当に正直な子だねえ」と言いました。褒める言葉はゆるす言葉です。ゆるしてやったぞ、なんていうのは芯のほうになにか残っています。「これからは嘘を言ってはいけないよ」真に褒めることは今までのことを全部ゆるしてやるということで、非常に深い愛です。心と一致していないのはだめです。「君は正直な子だね」「何が正直なもんか」と言いました。「小さい時からうそばかり言ってきた僕には正直なところなんかありません」「うそを小さい時から言ったことはないなんて言う子は大嘘つきだよ。それを正直な子だと言うのだ」そして初めて褒められて嬉しくなり、今までの罪の意識を皆この先生はゆるしてくれたのだと思いました。
講演では「子供を褒めて育てなさい」と話します。愛です。褒めること自身が愛なのです。褒めると愛を受けるから人間が変わります。そして初めから聞き直すと全部違っていました。親は公務員をしていました。本当のことを言うと公務員の親に影響があると思ったのです。始終叱られて育ちました。うそをいう我慢の忍耐袋が破れてしまいました。その子の責任でなく環境のせいです。運が悪かったのです。子どもは親を選んで生まれたのではありません。子どもは親も先生も選択できません。そういう環境に置かれる子どもにも運があるでしょう。どのようなカウンセラーに出会うかも一つの運です。宗教的にいえば神様の選びでしょう。神様があなたにそうして下さったのです。裁判官の名において処分無しで帰されました。憲法上それが行われました。
カウンセラーは自分にも愛を与えます。抽象的ですが、ゆるす愛と与える十字架の愛を。愛を受けた者は愛を与えることに容易になります。愛を与えることが難しくなくなります。自分が愛されていない人には愛するやりかたが分かりません。「頭がすっきりした」「判断がよくできるようになった」「顔が輝いてくる、美しくなる」「自分がゆるされた」「ああいう風に言われたら楽になったから、私もそういう風に言って上げよう」「先生がやってくれたように子どもに言って上げなくてはならないことが分かった」「だんだん楽にして上げることを言ってあげよう」「ちっとも怒らないで時々褒めている」「ああいう風にやらねばならないなと勉強になった」。

  いくら嘘をいう子でも盗む子でもゆるす。理由を見つけて。ゆるす理由を見つける人は愛の深い人です。知恵の無い人には愛がありません。十字架の教えは人間の罪をゆるす理由を父なる神が現実に歴史の上においてお作りになったことです。架空ではなく、観念でもありません。キリストの打たれた傷によってゆるされました。「私があなたをゆるしたようにあなたもゆるしなさい」聖書における至上命令です。カウンセリングとは楽にすること、重荷をとってあげることです。これを目標に対話をして行きます。聖書の言葉でいうと波の上を歩ける力ができるのです。祈りでも、神様、波の上を歩ける力を与えて下さい。波がだんだん低くなり、苦しくなくなり、みじめな感情がなくなります。そこまで波が静まるようにカウンセラーはクライアントを力づけるのです。ゆるす愛の根源は神から出ています。

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》 講演会   (1988年10月3日)

カウンセラー養成講座 講演会   (1988年10月3日)                           

  「お母さんは恐いの?」子どもに聞きます。「正座をさせられる」一種の体罰です。「お母さんに恐くしないように頼んであげようか?」「頼んであげましたよ」 目の前でお母さんに頼みました。「私は子育ての専門家です」と話しました。「子どもがいやだと思うことを取ってあげることは親切であり、それを愛といいます。してほしいことをしてやり、してほしくないことをしない。こういうことを愛と感ずるのです。子どものニーズを満たしてやることです。」
  「責められているのをゆるす。それを寛容といいます。聖書ではこの二つを愛と定義しています。学問的にいうと相手の存在を肯定して幸せを願う、これを愛といいます」 お母さんは私が子育ての専門家と聞いて本気に聞いて「ハイ」と言いました。そのとき子どもはもう正座をさせられないだろうと嬉しい顔をしました。
その子どもは席を立って席をゆずりました。五歳くらいの子どもです。自分は座りたいのにゆずったことが分かります。五歳でも自分が良いことをしたことが分かります。それが幼児の教育です。今から教育をしてやる、と改めて思わなくてもそういうチャンスはいくらでもころがっています。やらないのはやる気がない人です。よい子とは勉強もよくやりスポーツもでき、思いやりがあり気持ちが優しい。親はみなそういう子になってほしいと願っています。
私の子どもは皆気立てが良いと、皆さんが言ってくださいました。だから私は人が言うのだから良い子なのだろうと思うのです。担任の先生は中学でも高校でも、待ち構えているように「どうすればあの子のようになるのでしょう」と私の子どものことで聞かれました。表彰もされました。そういうように育てるやりかたと、親を困らせる子を直すのとは違うのでしょうか。全く同じ原理です。私の家の子はみなよい子に育ちましたが、だれもが素晴らしい目を見張るような子になれるのです。どういうふうに育てるとそういう素晴らしい子ができてくるか。私はそれを専門職として始めました。40年前に書いた私の本は今でも生命を持っています。京大の正木教授が褒めて下さり、末川博博士は我が家の書棚は、『キュリー夫人伝』と伊藤先生の本だけであると言われました。私の今の理論はそこに書かれている原理とそれからの発展です。はっきりと鮮明になったのが進歩したところです。大まかに漠然としていたのが、今ははっきりと理論が立ちました。一口に言うと子どもをかわいがって育てる。愛の問題ただ一点です。難しくなった子どもを愛してやれば直る。最近非常にはっきりとしてきました。子どもを愛する、愛さないといっても質と量において存在します。二つに分かれるのではありません。ありとあらゆる存在するものはその線上にあります。差があるのです。子どもは愛されて育つと気立ても良いし頭も良くなる。頭が良くなると生れつきかと思いますがそうでないことが分かりました。変わっていくものなのです。
利根川博士が人間の遺伝子は変わるという、驚くべき画期的な事実を発見されました。どういう条件で変わるか今後の学問の課題です。子どもの気立て、頭の良さは愛によって変わると確信していました。頭が悪い、と言われていた子どもがクラスのトッブに変わる、どこの高校にも行けないような子が検定にパスした。奇跡のようなことは幾つもあります。自転車やオートバイを黙って使う子がいた。窃盗です。その子がその年に国立大学の心理学科に入りました。親が相談に来たような子でした。そのような例は一杯あります。脳細胞が条件によって変わるのではないか。利根川博士はそれを科学的に実証しました。神様がお働きになるときそういうことが起こります。創造主、全能、無から有をお作りになる方。その子が愛を受けると創造主の力が及んで変えられるのではないでしょうか。愛が働くとき石がパンに変わるのではないでしょうか。
本当は叱らなくてはならないことをゆるしてくことを愛といいます。子どもが良くないことをしているとき、叱らずにゆるしていくときそこに愛が創造されます。ゆるす愛、罪の増すところに恵も増す。罪がゆるされるとき愛という恵みが。暗黒があるから光があります。栄光があります。人間の罪をゆるすときそこに愛という現象が生まれます。それがなければ愛という現象を見ません。人間はなぜこのように罪を犯すように創造されたのでしょうか、なぜか分かるような知恵はありません。神様だけがご存じです。そういう暗黒の罪をゆるし、神の愛という光り輝く現象を神様はお作りになっています。罪がゆるされたという非常な喜びで光り輝く、ゆるされた美しい顔になります。その人の中に愛が生まれて、ゆるされたものは人をゆるします。悲しむものは幸いです。慰め、ゆるされるのです。愛という価値が創造されるのです。本当に創造主は不思議なことをされます。
 「 子どもを愛して育てると良い子になる」。というと「子どもを愛さない親があるでしょうか」、という疑問が出てきます。いくらでもあります。見分けは簡単です。正座させるような親、とっちめて責める。叱って育てた親はみな愛に欠けた親です。そういう親に育てられた子どもは気の毒です。宿命です。子どもは親を選べない。挫折した子はみなのろってやけになります。家庭内暴力をします。仕返しです。子どもを愛するようになるとみな直っていきます。そこに救いがあります。非常に簡単です。愛ということに関係がある。神様は非常に簡単な原理を作られたのに人間がみな難しくしているのです。そういう話はいつか聞いたことがあるような気がするが、そこに止まらないで、あちこちと色々なところへ歩き廻り聞き、相談し、気持ちが定まらない人がいます。
  環境とは子どものまわりにいるお父さんお母さんです。「私はどのくらい子どもをかわいがってきたか分かりません。少し大きくなると子どもというものは親を泣かせます。」愛してきたのに。そうなれば心理学の法則が間違っていることになります。子どもに「お母さんは恐いか、恐くないか?」「恐いよ」「いつから?」「小さいときから」かわいがると子どもは恐いと思わなくなります。恐いと思うのは愛ではありません。愛とは安らぎと平安を与えるものです。親が勘違いしています。愛された子は決してその人を恐いと言いません。愛された子は親にくっついてきます。愛は愛されたところにくっつきます。愛が目に見えるように分かります。自己診断ができます。子どもは面白くない。落ち着かない。勉強する気になれないことがあるとき、それを勉強しないと親は思います。する気になれないのを親は勘違いします。足が立てないのに立たないと思うのは勘違いです。盗みをする子は手が出るので、わざとするのではありません。おねしょでも同じです。そこに愛の解釈が欠けています。勘違いもはなはだしい。親は怒りという罰を与えます。小遣いをやらない。精神現象は単純です。愛しているか愛していないか、ただそれだけです。この子はどのくらい愛を受けているか、診断から始めます。「お父さんは恐いか?」「お母さんは恐いか?」言いかたによって程度が分かります。勘で分かります。零度か零下30度です。

「お父さんが恐い」とはっきり言える子は愛情が少し欠けています。恐いとも言えない子どもはもっとひどいのです。何度か判断して対策をたてます。中には学校の先生の愛情の欠ける場合もあります。自分がゆるされず、とっちめられている人ほど人をとっちめるのです。手で叩くより口で叩くほうがひどい場合があります。「あなたのような子は家に置きたくない。出ていきなさい」。言ったことばでその子の存在を否定する。「出ていけ」とは簡単に言うものではありません。注意をされたら誰も面白くありません。さばかれるからです。責めることばは、注意、叱る、怒る、程度の違い、量の違いです。子どもを注意して育てるものではありません。ほっておいてもいけません。どうしたらよいでしょうか。注意ではなく教えます。教える言い方と注意する言い方は違います。注意ばかりしている人は教える言いかたを知りません。学校では教えてくれません。「早く起きなさい」「どうして起きないの」と言えば、子どもは「うるさい」「分かった、分かった」と聞きません。ほっておいたら愛情がありません。「今7時30分ですよ」それ以上のことを言ってはいけません。「今起きないと8時になりますよ」。因果関係を教えるのです。子どものニーズに対して替わりのものを出す。補償代行といいます。たばこを飲みたいといったら規則違反です。からだに害があるからだめだと言い、他のものを買って与えるようにするのです。

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》(第1次講座 第4回)

(第1次講座 第3回)は欠席のため欠



  (第1次講座 第4回) 1988年9月29日

  (第1次講座 第4回) 1988年9月29日

 大事なことを電話では相談できません。面接に切り替えます。電話での相談には深入りしません。一度失敗したことをやり直しするような感じで新鮮な感じがなくなります。面接に際しては家族構成、子どもの出産からの生育歴を詳しく、具体的に書いてもらいます。小さい時は育てやすかったか、難しかったか。幼稚園時代から小学校時代はどうだったか、親との小さい時からの会話を思い出しながら書いてもらいます。私の場合は「私の本を読みましたか」と聞きました。
相談の前に提出すのが普通ですが、カウンセリングの時に持って来る場合があります。事前に色々な準備ができます。学歴、職業、どのような言葉、程度に話をすれば良いかということが分かります。高学歴の人にはそのように対応します。学歴がなくても考え方、記述の仕方の立派な人もあります。子どもがいつ頃から学校へ行かなくなった、勉強しなくなった、財布からお金を盗るようになったということが分かります。「小さい時から気の荒い子で」「そういうたち(性質)で」「生まれつきけんかの好きな子で」と行動に注釈をつけていることもあります。大事な所、第一印象で感じたところに赤線をつけておきます。どの程度に親が困っているか、寒さを感じるのに違いがあるように困り方がみな違います。すべて存在するものは質と量において存在します。質と量に差があります。大したことではないと思うようなこともあります。緊急を要するとき、家出しているとき、探しに行くべきか、警察に援助を求めるべきか、帰って来たときにどうすれば良いか、まれにはそういうこともあります。
いよいよ面接になるとカウンセラー、クライアントの都合のよい日にきめます。面接の場面(場所)は第三者の居ない所をえらびます。友人と、または相談していた人と一緒に来た場合でも別に待っていてもらいます。親戚であってもです。なぜか、〝行動は場の関数である″行動は環境によって変化します。回りの人が変わってくると人の行動は関数関係で変化してきます。
ある実例です。両親が離婚し、中学生の男の子がお父さんと相談に来ました。自転車を盗んだり、盗んだオートバイを乗り回しています。「別れたお母さんに会いたいか」と聞いたら「なにが会いたいものか」ときっぱり言いました。子どもとお母さんの人間関係の一端が分かります。子どもはお母さんに対して恨みを持ち反抗していることが分かります。冷静に答えたのではなく強調して言いました。子どもの答えに疑問を感じたので「お父さん、ちょっと席を外してください」 とその場から出てもらい、そこで子どもに同じ質問をしたら「会いたいです。今でも会いたいです」と本音を言いました。ある意味で言ったことは信用できないが、お父さんが出て行った環境において会いたいです。と涙をこぼしました。
 あらゆる行動は環境と関係があります。その子と環境との関数関係で盗みという行動が起きます。すべてがそうです。物質的環境で部屋の中には気流があります。測定する人が入るだけで、機械を装置するだけで変化します。気流ですらそうです。人間の行動はもっと変化します。どういう場所でどういう人間関係の情況でものを聞くか。だれだれがいるからああいう言い方をするのだ、とカウンセラーは推測します。会っている時と普段のようすと違っている時があります。その子のたち(性質)ではなく、すべての行動は場の関数です。そういうたちを持って子どもは生まれて来ません。「小さい時からあなたがその子を育てた」「それによって手癖の悪い子に育っていった」「小さいときから悪かったと思えて仕方がない」そうではなくそれに見合うような環境が必ずあるのです。それを見分けなくてはなりません。好ましくない行動が出るのはそういう環境があるからです。子どもに対する親の対しかたがあるのです。親は子どもを小さい時からかわいがって来たと思うのですが、かわいがっていないのです。どのような理由でしょう。赤ちゃんが生まれ、赤ちゃんの顔を見たら自分の大嫌いなお姑さんとそっくりだった。そのときからその子は大嫌いになりました。お姑さんからさばかれる、注意される。いやなお姑さんだといつも思っています。すると感情転移、防衛機制ともいうものが起きます。ある人に向けられた感情をそれと外形上よく似ている人に向ける。その人と関係ある人に向けるのです。〝坊主が憎いと袈裟まで憎い〟のです。名字が一緒だけでもいやな気になるのです。子ども時代に先生にいじめられた。教師だけは嫌いだ。教師とは結婚したくない。そのことは八卦のように当たります。
  知識階級の人にも起こります。若い時に〝生たまご″にあたった。それから20年も30年も〝生たまご″を飲みません。前にあたったたまごとは違っても似ているから食べません。自分を守るためにそういう仕組みがあるのです。場所についても転移します。この場所で救われたというその場所が好きになります。その場で叱られるとその建物まで嫌いになります。好きな人から物をもらうとその物まで好きになります。ある俳優が好きになるとその髪形をまねる。それが感情転移だと気付かせると段々薄らいできます。嫌いなお姑さんと顔が似ているだけで嫌いになった。お乳をのますのにも仕方なしにのませた。始終責められるものが心の奥にあったのです。子どもはそれを感じとります。おねえちゃんに対するのとはちょっと違うなと。
ある小学生の実例です。落ち着きがない。勉強しない。そこで母親がよく叱る。「いつから叱るようになったのですか?」「2、3歳からです」「私の性格になんとなく合わない子でそんなポケッとしないで勉強したらどう、と次から次へ叱る言葉が出ました」「安産でしたか難産でしたか?」「難産で私はあの子に殺されかけました。そのときからあの子のおかげで宝石など売ってしまいました」 私を苦しめた子ども。と行動の解釈をしているのです。「それはあの子が親を苦しめたのではありません。お産で苦しみ、あの子も死ぬか生きるかで出てきたのではないですか」そこで初めて気付いてワアーッと泣きました。貴金属を売ったことを思い出して腹を立てていました。それでその子を叱ったりしました。「私の勘違いで悪いことをした」全部分かってゆるせるようになりました。その瞬間一刻も早く家に帰りたい、あの子の好きな物を買っていこう。おわびのしるしに。「お母さんの顔付きが変わった」子どもは少年院に来るような悪いことをやっています。おわびをするということは子どもを徹底的にゆるすことです。子どもは一箇月ぐらいで変わっていきました。難産ということに感情転移したのです。生まれるとすぐに嫌いなお姑さんにかわいがられた。そのうちにお母さんはその子の心から離れていったのです。
クライアントである母親か子どもが話すとき、感情転移があるかどうか調べることが大切です。「生れつきは白紙ですか?」「素質というものは無いのですか?」 と皆言います。素質論はありません。精神的におかしいのは遺伝かしら、〝いとこ″にそういう人があると、そういう素質かと考えたくなります。ほんとうはそう考えたくないが考えると楽になるのです。絶望の末遺伝だとあきらめるのです。それは違います。そう考えるのは半分インテリの人に多い。根強く入りこんでいます。
昔、盗みの素質が頭の骨格に出ているということで囚人の統計をとったことがあります。笑い話です。学説を立てました。今でも同じような考えかたをする人が多くあります。それを救うみことばは「神を愛するものたちには万事が益となるように共に働く」(ロマ8章28節)ああいうことがあったからこんなに幸せになった。益とは幸せなことです。すべてのことが働いて益となったと思えるようになったと書いてあるのです。奇跡のように思えます。それをカウンセリングの場でも経験します。「私の家でも奇跡が起きました」「こんなことは直る筈がないと思っていたことが直りました」考えの間違いを訂正して受け入れるのです。叱るから悪くなる悪循環が起こります。「子どもを叱ってはいけません。悪くなりますよ」といっても聞くだけで「叱った方が良く効く」と考える。理論を持つと理性が受けいれる。そうすると今まで持っていた考えを捨てられます。心の状態は環境が変われば動いていきます。人間の心は物品とは違い変わるものだから直すことができるのです。
クライアントの考え違いを「それは違いますよ。あきらめれば楽ですが幸せはありません」などと言うといやな感じが残ります。その子が変わると信じれば希望が出てきます。カウンセラーを信頼していれば、説明を素直に受けいれます。     
他のカウンセリング書を信頼する人がたまにくることがあります。信頼しない人のカウンセリングはできません。イエス様は信頼するものを救うとおっしゃいました。そう説明してもむこうが受け付けてくれません。反対に信頼する人はすぐ直ります。どんないやだと思う人でもその感情を取り除いて接しなければなりません。あの人はいろいろな本を読みすぎて間違ったものが取れないのだ。この人もかわいそうだと思えばゆるし、話を進められます。対抗して話をしていた傲慢な姿勢に気づいてあやまった人もいます。紹介者によっても直るか直らないかが分かれます。クライアントの信頼度が違ってきます。いろいろとカウンセリングを受けたあげく先生しかないと来た人はすぐ直ります。カウンセラーを信頼しているかどうかは対話をしているうちに分かります。ゆるしながら話していくと実績で信頼するようになります。
『愛は裁かず』の一ページに書いた女の子の場合、少年院へカウンセリングの現場を教官に指導するために行ったのです。「やさしい良い先生が来てあなたのために話してくれる。僕たち教官とは違う。何でも相談にのれるよ」。ここの教官は嫌いだけれど違うというから会ってみよう。その子が来て座りました。テープが回っていました。「録音するのはいやだな」と言いました。「それでは録音を止めてもらおう」と言ったら「まあ良いです」と態度が変わりました。すぐ止めてくれるような人に対すると認識が変わります。良い先生かどうかクライアントは試験しています。こんな人と会ったことないと感じていきます。「この先生がこうしたらどう?」と言ったらその通りにやるという姿勢に変わります。信頼する人の言うことはよく聞きます。信頼しない人の話は聞きません。信頼を対話の中で深めていきます。よい先生だな、優しい先生だな、と思わせる対話、やり取りを深めていきます。
やさしいという言葉の概念は、「やさしく言ってくれる。してくれる」で、言ってくれるはゆるした言い方、裁かない、責めない、寛容な言い方をしてくれる人。してくれるとは、ニーズを満たすこと、親切なこと、やってほしくないものを取ってくれる。積極面と消極面があります。寛容と親切を総合して愛するといいます。ゆるすと、やるという二つの愛です。家庭に愛が欠けるとはゆるしてやらず、叱っている。ご飯を食べさせないということとは違います。「悪いことは悪いとけじめをつける」寛容という愛が欠けた家庭ばかりです。
少年院の女の子の場合、あとで研究会に使うテープは、私はとらないほうがよいと思い「課長さん、この子のために止めてほしいのです」。そのときその子が私を信頼してくれてたいへん嬉しかったのです。その子がやさしい先生だと思ったその瞬間に判断しました。そこから本当の信頼が始まりました。まだ見ないところを確信しました。勝負はもう決まりました。「あなたの小学校時代は?幼稚園時代は?」と聞きました。弁論大会で優勝したとび切り頭の良い子が転落したのです。中学時代から非行少年グループに入りました。最初のきっかけは、男の子と付き合って本の貸し借りをし、勉強を教えてあげていることを担任の先生が親に注意しました。父親に叱られ正座させられ痛めつけられました。そのときショックを受け親との愛が断絶し、親の困ることをやってやろう。自分の一生を犠牲にして親を困らせるために復讐してやろうと思ったのです。
最初の出発点が大切で、シンナーを何度やったかということは関係ありません。警察が聞くことです。警察の調書は裁判にするために調べますが。カウンセラーは最初の踏み出し、なぜそうなったか、違ったレールに乗っかったか、いつ勉強嫌いになったか、情況、環境、今までやっていたそこを聞きます。心がけを聞くのではなく人間関係の環境、その人がその子に何を言ったか、その子が何を思ったか、そこが大事です。根掘り葉掘り聞くのではありません。お母さんに聞くと途中のことはくわしく書いてあるが、カウンセラーはそんなところは飛ばしてよいのです。話の途中で相手の言ったことを裁いてはいけません。不用意に話していても裁くことばが出なくなればプロのカウンセラーといえます。
〝NON DIRECTIVE COUNSELING(ロジャース・米)〟相手の言ったことを裁いてはいけない。おうむ返しに言いなさい。その通りに話すと楽になる。何べんか相手の話した同じことばをくりかえす。そのうちにクライエントが僕のまねばかりしていると言い出します。
大学の先生から伊藤先生の場合は一回で直ることが不思議です。教えてください。といわれました。大学の先生たちが私の講義を聞かれました。技術的に対応の仕方を教えると害があり、口先ばかりで対応するようになります。その人の行動を心からゆるしてあげる。ゆるさずに口の先でまねをして応答するのとそこが違います。ゆるす理由が考えつかない人はゆるすことができません。心の中で怒ることが口に噴き出してきます。「叱ることは止めなくてはいけません」ではなく「ゆるしてあげると叱るのが自然に止みます」技術です。少女をどうしてゆるすか、「あなたのお父さんは教頭先生です。お父さんは子どもにどう言うべきか分からないから、無知だからそんなことをやった。そこであなたは〝ぐれた″のです」〝無知だったから″はお父さんを救います。子育てを知らないからあなたにそんなひどいことを。「主を十字架につけた群衆を無知ゆえに赦された」そのみことばを思い出して私は言っているのです。「あなたがぐれたのはその言葉のせいです」全責任をそっちにもっていきます。「あなたも少しは悪かった」と言っては全部だめになります。そのとき子どもは「私も少しは悪かった。妹はぐれずに私だけぐれた。自分が悪い」という罪意識が生じます。「それは妹とは言い方の程度が違うよ、あなたに言ったことはひどいよ」その言葉で全部ゆるされてワーッと泣きました。ゆるしの愛を体験したのです。宗教体験をしたように安らぎが、と手紙に書いてありました。非常に深い宗教体験。「愛のほかに神なし。神は愛なりと体験しました」十字架の赦しの愛を体験したのです。「考え間違いをゆるしてやったよ」という言葉は禁物です。私の本の中にはいっぺんも出てきません。

《午後のお話》
 困った問題が子どもに出ると責任の追及が始まります。「お母さんが甘いからこういう子になった」「お父さんがもっと遊んでくれればよいのに、子どもに接触してくれないからだ」と責任をよそへ持っていきます。この子の生まれつきではないかとも考えます。『十字路に立つ子ら』の中の例からお母さんは今度は男の子が生まれるように願をかけました。お母さんは自分が裁かれています。イエスは親の罪でこういう子ができたのではない(ヨハネ9章1~)自分の罪でもない。自分の欲しない、いやなことはそれによって神の栄光が表れるためと現象の解釈、行動の解釈をされています。神の素晴らしいこと、喜びが表れるためと言われています。今悲しむ者は幸いである。幸いでないと思われることが幸いであると、非常な感動、喜びを与えられるためにこうなっていると解釈されました。生まれつきという考えをたちどころに変えられました。親は子どもの前途を案じています。カウンセラーとしては今すばらしい喜びをこのお母さんは味あうと確信しました。「どこへいっても駄目だといわれたこんな子が直るでしょうか?」「直りますよ」。
盗みをする子、子どもは校長室に呼ばれてびくびくしています。学校に来ていることを褒めました。盗みをする前は正直な良い子だったことを褒めました。盗みをして警察に呼ばれていてもその子の顔がかわいらしかった。愛情に欠けるとは寛容の愛か、ゆるす愛が欠けています。毎日叱る。それが愛に欠けることです。愛とは親切なこと、その子を責めずにゆるしてやる場面にしようとしました。褒めっぱなしで注意も何もなく帰しました。褒めることによってゆるしを伝達することが大切です。芯からゆるすことばがその子に効きました。長所を褒め、短所を指摘するこれが教育の普通の考えです。短所は裁くことになるから触れてはいけません。褒めることだけでそれっきり直ってしまったのです。こころから褒めたかどうか、子どもは見分けます。芯からゆるしていないのに芯から褒められません。技巧でまねしたのではいけません。そういうカウンセリングがはやっていますがうまくいきません。自分の家の子どもが直せるかどうか、両親が欠点をゆるせるかゆるせないかの一点にかかっています。ゆるされた時に愛を感じて人間が変わるのです。ゆるしたしるしに子どもに小言を言わなくなる。叱る、怒る、の大型爆弾、小型爆弾の違いです。「楽になりました」「すっきりしました」「肩の荷が下りました」とクライアントが言ったらカウンセリングは成功です。直らないと思っていたのが直る。ゆるしてやれば直る。確信をもって言えます。真理です。「やるぞ、とやる気の顔をしています」と言いました。ノイローゼのような状態で、注意すると怒り出すようだったのが猛勉強するようになりました。漠然ととらえていたのが一つの法則で説明できるようになりました。
 「一日いっぺん褒めること」「それをやめると直ります」と命令形で言わないことです。親に教えていく言い方をします。当たり障りのない「と思います」と付け加えると良いのです。私は断定的に言っています。「この子のためには時間とお金のどんな犠牲をも払います」と母親は言っていたのが、裁きの言葉をやめただけで直りました。テープの巻き戻しをしただけで直りました。全部のケースがそうです。さばいて叱る、責める、そのレールの上を走っているのです。長年技術を磨き研究してきたのだから捨てたくない。押入れの隅にしまっておきたい。お母さんが昔の癖が出て注意することばを言ったけれど、子どもは気にもしません。それは不思議です。長い間のこともゆるされた、ゆるすことが子どものほうにできたのです。子どもがえらくなった。お母さんが続けてゆるすことをやったから子どものほうからゆるせるように成長したのです。
 自分が家庭の中で徹底的にゆるされると、先生をゆるすようになります。先生を責めると恐い。自分に敵意があると恐い。ゆるすようになると行けるようになります。登校拒否はきっかけをつかむとある日突然行くようになります。いわば大人になったことです。お母さんは幼稚で子どもの領域にいるのだと思うようになる。その理論が分かってきました。ゆるせず敵意を持つと相手が恐く見えます。敵意が強いほど相手が恐くかたきに見えます。ゆるしの愛憎関係です。愛の正体をつかんでいません。ゆるすことが愛です。十字架の愛はゆるすことの象徴です。人間をゆるす理由を作られた神のわざです。歴史の上で作られた。歴史の間で計画をなさったと書かれています。カウンセリング理論の頂点に立つのがゆるす愛です。十字架のゆるす愛が分かると理論が網の目のように立てられてきます。「家のこんな子はなおらないでしょう」「ちがいます。やるようになれば(理論どおり)直ります」お母さんが完璧でなくてもよいのです。カウンセリングに来て相談しているうちにゆるせるようになります。
伝えていくにはガラス線では伝わりません。銅線で、言葉で、動作で伝わります。父なる神の伝えられた模範は放蕩息子の例にあります。(ルカ15章11~31節)一番良い着物を持ってきて着せてやり、一番良い羊をほふってくれた。お父さんが本当にゆるしてくれたのだという感動がありました。ゆるしのしるし、見本です。伝達はどういうふうにされたか。ゆるす愛の本の中に例題を書きました。褒めることはゆるしの伝達です。褒めただけで常習犯が直ります。「ありがとう」はゆるすことば、褒めることばでもあります。小遣いを思いきって与えます。そこに一言加えると効果はゼロです。そんなのいらないと返してきます。ゆるすことは難しい。理由の発見が難しい。本当にゆるせる理由を作るために全能の神は処刑されるイエスを助けようと思えば助けられたが黙しておられました。カウンセラーは理由を教えることができます。ゆるせないということばをゆるされたから大きい感動で楽になった。ゆるす適当なことば、ゆるす構えは練習を積んでいないと出てきません。ゆるしを経験した人はゆるせるようになるのです。

《質問に答えて》
◎子どもを勉強好きにするにはどうするか
 「そうすると子どもがだめになりますよ」「あとで手がつけられなくなりますよ」と因果関係を教える言い方をするのです。やらないときには何も言わず、たまに勉強をやったら褒める。冗談にも「めずらしく勉強しているね、雨が降るね」などと言ってはいけません。勉強好きにするにはどうしたらよいかという理論、簡単な方法は、やっているということを褒めることです。「今日は寒いのによくやっているね」と心から褒めるのです。嬉しい気がして顔色が変わる程度にほめます。コーヒーを出したりケーキを出したりすると勉強をするのは楽しいな、とやみつきになるのです。
感情転移で叱られたことを思い出して机に向かうのがいやになることもあります。叱った経験のある机を変えてみる。机に感情が転移するからです。褒められると机までが好きになります。褒めることで子どもが立派に育つ例はいくらでもあります。目的意識を確立する。なぜ勉強するのか、勉強の必要性を子ども自身が打ち立てることが大切です。何のために勉強するのか、入学試験のためばかりだと疑問をもってきます。圧迫されて苦しいけれど頑張らなければならない。合格するためには。本当の勉強意欲をかきたてるのはどうしたらよいか。
国の文化財として登録された本(児童福祉法8条7項)『子をめぐる愛憎』に勉強のさせ方、どうしたら勉強好きになるかを理論的に書きました。
  1. 褒めること。(上手に褒める。間違った褒め方をしない。そのものを褒める。お母さんの腕前にかかっています)
  2. なぜ勉強しなくてはならないかを子どもに分からせる。(目的意識を確立。あそこの学校はどうのこうのということは圧力をかける。落ちたらどうしよう、苦しくなる。合格するために勉強しなさいは一番いけません)
決して注意しない。零点をとってきても見せたことを褒める。机に向かっているだけでも褒めるのです。小学校二年生の子どもが明日は遠足です。だんだん天気が悪くなってきた。「明日は天気になるかしら」「明日はだいじょうぶよ」「新聞の人はどうして分かるの?」「それは勉強をしているからよ」「勉強をすれば分かるの?」そういうチャンスを待っていたのです。それから意欲的にやるようになってきました。チャンスをつかんで目的を果たすことが大切です。