2015年12月23日水曜日

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》 (第1次1回)1988年6月28日


  カウンセラーとしての学びの場
悩んでいる人の悩みをどうしたら軽くして上げられるか、それに携わる人をカウンセラーといいます。これからカウンセラーとしての知識を学んでいきます。
  カウンセラーという言葉は流行で、常識のようになってきました。ここで扱うのは子どもや、関連する親や教師のカウンセリングです。ソシアル・ケースワークという言葉があります。ビデオ・ケースワークという言葉もあります。大きな病院には医療ケースワーカーがあります。ケースワークとカウンセリングの違いは、一対一で対話をし目的を達成しようとするのがカウンセリングであります。当事者の子どもとカウンセラーとの対話だけでは達せられない場合があります。周辺の者、親、教師、交友、そういう人達にも働きかけて目的を果たす場合もあります。回りの人に呼び掛けて達成しようとするのをソシアル・ケースワークといい、その子どもの回りの社会資源を動員して行います。殆どが親との対話をするのでカウンセリングではなく、カウンセリングの意味を拡大しています。アメリカでも混同して使っている向きもあります。
  カウンセリングという意味で講義を進めていきます。カウンセリングの目的は、何らかの悩みを持っている人に対し、言葉の対話によってそれを解決する。その過程をカウンセリングといいます。薬を用いません。薬を用いるのは医療の領域になります。目標は悩みを軽くし、無くしてあげることです。楽にしてあげる。重荷を背負って苦しんでいる人の口から「肩の荷が降りた」「すっきりした」という言葉が自然に出てくる。その言葉を待ちながら対話を続けていくのです。
安定剤を飲みながら1年も2年もカウンセリングに来た母親が、話を続けて一時間くらい過ぎるとだんだん明るくなり人が変わってきました。その段階で一段落し「お母さんの顔はどんな顔?」と子どもに聞くと「なんだかお母さんが楽になったようだ」と答えました。お母さんはニコニコしてもう変わってきました。おろおろしていた子どもが、三年生にもなるといろいろなことが分かり心配していたのです。心配のあまり勉強する気になれないのです。子どもが勉強したくてもできないことは子どもの問題です。そして「薬を止めてもよいのでしょうか?」と聞かれた時「私は医者でない。あなたの考えでよいように」と言います。その夜から自分の考えで薬を止めました。
カウンセリングとは重荷を取ってあげること。「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28)「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(ヨハネ14章12)と励ましてくださるそのみことばのとおりになっていくのです。「わたしを信じる者」というみことばの定義はキリストの語られた「私のいましめを守る者」ということで、「神様、神様」と言う者が天国に入るのではない。ほかの個所ではそれを信じる者と定義しています。私のいましめとは、「私があなたを愛してゆるしているように、あなたもあなたの隣人を愛しなさい。それよりも大きいいましめはない。」すなわち寛容と親切をしなさい。それを私に対する信仰のある人と呼ぶのです。と言われています。
  「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリント信徒への手紙13章13)と書いてあります。私のいましめを守るものが、信仰のあつい者と書いてあります。カウンセリングを受ける人はみな神経が疲れています。どういう方法で楽にして上げるか。そのために私は心理学の勉強を基礎からしました。聖書の勉強もしました。一番大事で役にたったのは聖書のみことばです。聖書は真理の宝庫です。キリストは真理。真理と私は一緒である(ヨハネ14章6)とおっしゃいました。心理学の基礎理論がカウンセリングに役立たないということではありません。その理論が無いと無駄をします。それを知っていると考えることの無駄が省けるのです。基礎理論がそれほど発達しているわけではないのです。
  旧心理学と新心理学、どこが古いか新しいのか。簡単に言えば、素質が環境とあいまって伸びていく。気質の分類は旧心理学に属し、素質を主張します。新しい心理学の夜明けの鐘を打ったのはドイツのクルツ・レビン(K・Lewin)それから旧・新心理学が分かれました。日本に導入したのが小野島氏、若くして博士を取った人です。そこから変わってきたのです。心理学の中心は人間の行動を研究する学問で、どうして、どのような条件で行動が起き、変わって行くか、条件を変えたら行動が変わるのか、その研究が心理学です。  
 K・Lewinの発見した法則  B=F(P・E)
                                  行動=関数(人と環境)
  人の環境が変われば行動が変わるという法則です。盗みをする子どもは盗みの性質(遺伝的なもの)を変えなければと遺伝のせいにする。良いことも悪いことも含めて、性質(たち)だという、そんなものはありません。怠け者も勉強ぎらいも性質ではありません。そういうものを一掃したのがクルツ・レビンです。 えんどうの素質があるからえんどうが出てくる。それを素質といいます。そういう素質はあるともいえます。ノーベル賞を受けた湯川博士の父もこの子はだめだから、頭が悪いから小僧にしようといっていたのですが、お母さんが頼みこんで商業学校へ入ったのです。
素質があっても誰も見ることはできませんし何があるか分かりません。人間には何も分からないということは、何もないと同じことです。人間には考えられないのです。神様にしか分かりません。素質を環境によって発達させて行くことはあります。論理を進めて行く上での仮説(素質)です。この子は怠け者の素質がある。どろぼうの素質だ、などと言っては子どもはおかしくなります。ある子は気の小さい生れつきだとか、そんな素質はありません。神様は無から有を創造されたと聖書にあります。何も無い所から地球を、植物を、生物を、人間を創造されました。後から出て来たものほど高級だといわれています。順番を作って、と聖書に書いてあります。おとぎ話ではありません。神様はポンとお作りになった。この創造元を神様と言います。人間の思考を越えて、時間空間を越えて支配していらっしゃる。人間には一部分しか分かりません。
 カウンセリングは人間の行動を問題にします。ここでは子どもの行動とそれに関連する人の行動を問題にし、考えていきます。暴走族の子どもも、よく勉強をする子どもの行動も、どうして起きるか。行動は人との関数において起きて来ます。お母さんが変われば子どもの行動も変わる。お母さんが三倍変われば子どもも三倍変わります。子どもは親の生き写しです。環境と人を含めての〝場の心理学〟における法則です。気質を分類した分類学は幼稚な学問だと言われました。 子どもがどうしたら立ち直るか。その方法を学ぶのがこの講座です。芯の通ったカウンセラー、どんな学者が出てきても太刀打ちできる方法です。
環境とは自然物理的環境―自分の回りということです。自然物理的環境によっても人間の行動は変わります。寒さ暑さも人間の行動に影響します。文化的環境―文化とは自然に人が手を加えて価値のあるものにしたもの、作業をも文化と言います。価値とは真、善、美。その価値を実現する学問を科学といいます。「善」、「世界」を問題にするのを「道徳」、「宗教」といいます。「美」、を追求するのを「芸術」といい問題を追求します。「風俗・習慣」を道徳の中に含めます。文化が違うと人間の行動は変わって来ます。違った文化の中に入ったとき、挨拶の仕方、表現の仕方、行動を合わせないと排斥され、人間の行動が変わってきます。
社会的環境に家庭という環境があります。家庭から社会に出ていくとき、橋のような役割をするのが学校です。環境に適応するため橋を渡りますが、気持ち良く生活できないことを、「適応困難」になっている子どもといいます。環境に適応しないと不愉快になったり苦しくなったりします。暑くなると、涼しくするように環境を支配し、科学が発達しました。
デューイ(教育哲学者)『デモクラシー&エジュケーション』 “人は環境に支配されるけれど又支配することもできる”社会的環境にも人間は支配されます。家庭という環境が冷たいか、暖かいか、親の子どもへの接しかた、愛情を持った接しかたかどうかによっても子どもは変わります。家庭の環境が変わると子どもが変わります。愛を与えたことによって子どもの行動が学問的にも変わります。その公式をそのまま頭に入れておかなくてはなりません。社会的環境―人間の環境のことです。お母さんが環境をととのえてクーラーをいれてくれた。良いお母さんならお返しをしなくてはならない。勉強をして良い成績をとってお返しをしょう。お母さんが犠牲を払ってしてくれた。有り難いお母さんだ。
  カウンセラーは社会的環境を変える仕事をします。殊に学校での問題は先生に会うことが必要です。先生に会うことによって先生が変わります。ケースワーカーは手をのばして環境を変えていきます。そのときカウンセラーは動きません。父母への対応の仕方がどうにもならない場合もあります。ある実例が思い出されます。外の環境が頭の中にあり、そのために外に出られなくなりました。環境がその人の中でどの辺まで広がっているかを調べて好ましくない環境を好ましい方に変えてあげます。その子の心がけを直すのではありません(旧心理学の体系)。ぐず、勉強ぎらいを自発的に直せというのではありません。その子がひとりでに良くなるように環境を作ります。そうすると自然に変わってきます。
 
《午後のお話》
 環境と無関係に行動している人の例もあります。その人の性質ではないかと思われる行動です。新しい心理学に記述されている話ですが、ある人が友人を訪れました。その人の家は湖の向こうにあり、駅から真っすぐに歩きます。湖には氷が張っていました。客観的自然物理的関係は湖水です。だがその人には平野だと思えました。人間は客観的に対応しているのではなく、意識、認識した環境に対応しています。そういう環境のことを心理学的自然物理的環境といいます。
  人間の行動は社会的環境によって変わってきます。父親は他のことで悩み苦しんでいるのですが、それを子どもは自分のことを怒っていると意識します。そうすると子どもは父親を避けるようになります。子どもが誤解しているのです。心理学的社会的環境は、実際の環境との食い違いが一杯あります。子どもが勘違いして一歩も外に出られなくなった、そういう例がたくさんあります。カウンセラーはそれを見破らねばなりません。ほかの人は「親の態度が悪い。態度を変えなくては」といいます。カウンセラーはその訂正をします。
お母さんが離婚して出ていった例として私の本に書きました。自分の中にあったものがお父さんの背中にかがやいて見えた。投影―プロジェクションです。お父さんは子どもの行動を誤解していました。思えたのです、見えた環境で行動しているのです。カウンセラーはどうするか、人間は皆心理学的環境において行動を取っているのです。同じものを「ヘビ」と思う人もいれば「縄」と思う人もあるのです。親が子どもの行動についても間違いをします。早い段階でカウンセラーは見付けなくてはなりません。カウンセラーを信用しているとすぐ受け入れてくれます。信頼されていない人のカウンセリングは難しい。   
イエス様は信頼して来た人をたちどころに癒されました。イエス様ですらそうでした。イエス様の神格は時間と空間を超えています。信頼をしない人にはそうされていません。カウンセリングもそうです。段階があります。「私を信じる者は私のするようなことができる。かつそれ以上に大きいことをすることが出来る。」人類に対する励ましのみことばです。
  私を信じる者とは神様、神様とお祈りする人ではありません。イエス様のお言葉を真理として実行する人、いましめを守る者それが信仰の定義です。「私があなたに寛容であるようにあなたも回りの人に寛容でありなさい。」それをする人を信仰のある人といいます。「信仰と希望と愛とその中で最も大事なものは愛です」愛は寛容でゆるすことです。カウンセリングをする時、盗みばかりしている人、いろいろな人が来ます。それをゆるすのが愛です。家庭裁判所で、ゆるしを伝えたことがあります。「僕の中に僕でないもう一人の人が居て、それがやってしまうのです。こんなように僕を理解してくれる人に出会ったのは先生が初めてです」。他の人からはいつも責められています。「ゆるしてもらったら、もうひとりの僕は出て行ってしまいました」。
私は極端な経験をいくつもしています。ゆるしを与えると人間が生き返ってきます。責めたり叱ったりすると余計悪い子になります。ゆるす愛の中に神がいらっしゃる。神は創造主です。その愛の中に神がおいでになる。「愛なき者は神を知らず。神は愛なり」愛の神を信じる者の中に神は入って宿ると書いてあります。信じる者の中に神が入って下さるからその人はできるようになるのです。神は霊的な方です。聖書の中にそう書いてあります。カウンセラーはゆるしていくことを忘れないようにすることが大切です。くい違いが起こるのは誤解していく理論があるのです。愛とは生きるエネルギーです。

  子どもは、その子をゆるしていくところで変わっていきます。「そんなことを言う人がいるから君がおかしくなったんだよ」と。叱らない甘いカウンセリングをすると子どもは皆謝って「僕が悪い」と言います。潔癖な子どもは、お父さんお母さんが嫌いだから嫌いな人間が入ったあとのおふろに入りません。お父さん、お母さんが愛してくれると分かったら二番風呂に入れるようになりました。愛されると親にべったりとくっつきたくなるのです。お母さんのにぎったおにぎりを絶対に食べない子がいました。嫌いなお母さんへの感情転移です。子どもと親との関係がどうなっているかが分かってきます。生きがいが分かってくるのです。生きるとは愛すること。愛するために生きるのです。

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