2015年6月25日木曜日

ごあいさつにかえて「81歳にして思うこと」    


 今、イスラム過激派がイスラム国を名乗り、テロ活動を広げ始めました。フランスで、預言者ムハンマドの肖像に手を加えた漫画を載せた新聞社が、銃撃され、編集者を初め11人が殺害されました。ニューヨークでは、9,11事件で世界貿易センタービルに、飛行機が突っ込み、ビルが崩壊し、何千人もの人が犠牲になりました。

 歴史上の戦争には宗教が関わっている例が多いと思います。キリスト教もいくつもの宗教戦争を経て歴史を作ってきました。今でも新しい宗教戦争はいくつも起きています。

 もちろんテロによる殺人は許すことはできません。相手の信仰が、自分の目からは間違っていると見えても、相手の信仰を誹謗中傷することはいけないと思います。

翻って考える時、聖書にはイエスが、他の宗教を非難、排斥された記事は見当たらないと思うのです。

ユダヤ教の中での学者、パリサイ派に対して厳しく非難されたけれど、当時も存在したであろう、諸宗教に対しては言及されていないと思います。

イエスが非難されたのは、偽善、憎しみ、裁き(愛の反対)に向けられていたように思います。
貧しさ、苦しさ、病いにあえぐ民衆が何かにすがろうとすることに対して、寛容の愛、すべての者へのいつくしみを示され、病の癒し、赦しの愛を示されたことを感じます。

まだイエスの十字架のあがないの死は遂げられておらず、イエスは神の国の実現に目を向けられていたのではないかと思うのです。地上における神の国は、愛の国だということを人々に示され続けた歩みではなかったかと思います。

私の長男が、親に反抗していたとき、『自分だけが救われて、信じない人は滅びるというキリスト教なら僕は滅びても良いよ』との言葉を投げつけてきました。

その言葉はショックでした。長男の言葉には真実性があります。人類の永遠の昔から、現在に続く世界中ほとんどの人また、身の回りのほとんどの人はキリストのことを知りません。それらの人はみな亡びに定められているのだろうか。私たちにそれをとやかく言う資格はあるのだろうか。

律法主義的な信仰から、愛を知らなかった(『愛のない者に神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。』(Ⅰヨハネ4:8)ことにより、子どもを苦しめてきたのではないか、後にそのことに気づかせていただきました。

50年近くを牧師の伴侶として過ごした中で、さまざまな試練を通して、裁けば必ず裁かれるという原理を教えられました。多くの苦しみがあったからこそ、20年あまり前に、師と仰ぐ方との出会いがあり、教えを受け、赦しの愛を知ることができたのです。このことは本当に幸せでした。

真の愛を知らず、世界中に宗教上の争い、殺し合い、さまざまな悲惨が絶えないこと、愛が冷えていくことをキリストは悲しまれておられると信じます。
「神は愛です。愛のほかに神はありません」と講義のあと、いつも師は宣言されました。

今でも聖霊としてこの世に満ちている神の愛を深く感じます。なんと世界は闇に閉ざされていることか、しかし私は神の国は勝ち取るものであり、愛が満ちる時、神の国は実現すると、81歳を過ぎたこのごろ思うことです。
の宗教戦争を経て歴史を作ってきました。今でも新しい宗教戦争はいくつも起きてい
ます。
もちろんテロによる殺人は許すことはできません。相手の信仰が、自分の目からは間違っていると見えても、相手の信仰を誹謗中傷することはいけないと思います。
翻って考える時、聖書にはイエスが、他の宗教を非難、排斥された記事は見当たらないと思うのです。ユダヤ教の中での学者、パリサイ派に対して厳しく非難されたけれど、当時も存在したであろう、諸宗教に対しては言及されていないと思います。イエスが非難されたのは、偽善、憎しみ、裁き(愛の反対)に向けられていたように思います。
貧しさ、苦しさ、病いにあえぐ民衆が何かにすがろうとすることに対して、寛容の愛、すべての者へのいつくしみを示され、病の癒し、赦しの愛を示されたことを感じます。

まだイエスの十字架のあがないの死は遂げられておらず、イエスは神の国の実現に目を向けられていたのではないかと思うのです。

地上における神の国は、愛の国だということを人々に示され続けた歩みではなかったかと思います。