2015年12月23日水曜日

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》(第1次講座 第6回)1988年11月24日

(第1次講座 第6回)1988年11月24日

   戦いのない苦悩はありません。守るも攻めるも苦しい。心の葛藤と学問的には呼んでいます。カウンセリングを求めて来るクライアントはこの重荷からの解放を求めています。人から責められているということを聖書では裁かれているという言葉で表現しています。裁けば裁かれる、と聖書にあります。裁けば裁かれるのが必然の法則であります。この法則を打ち破るもの、逃れることのできるものは無限の力を持つ愛しかありません。それゆえ「聖書には神は愛なり」とあり、「愛は神から出るもので、愛する者は、みな神から生まれ、神を知っているからです」(ヨハネの手紙14章7)と書いてあります。真の愛は神より与えられたものゆえ、必然の法則を破る無限の力が愛にはあります。愛には親切という面と寛容という面がある、と聖書にあります。ある角度から見れば親切であり、別の面からは寛容である二つ大きい側面であり、二つの愛があるわけではありません。『そのものの存在を肯定し幸せを願う』という二つの側面です。人は愛というものを、人の目によって、視覚によって捕らえることができるように神はしてくださいました。それは柔和です。愛ある顔は柔和です。幼い子どもでも愛を目で見ることができます。聖書に記されているみことばからの解釈です。
  人から責められ裁かれる。すると裁き返しをする。それは敵に対して自らを守ること、防御の姿勢ができることです。物理的にできてきます。心の中に攻防戦が起きているときに人は苦悩してその戦いに疲れます。内心における戦いであります。しかし、その戦いはゆるす愛によって止むのです。これを愛による和解、神による和解ということができましょう。その時に平安という安らぎが訪れます。突如として訪れるものです。そのとき人は「ああ楽になりました」と言います。「重荷が取れました」と言います。「すっきりしました」と輝くような顔付きで言います。その人の顔は柔和になります。その人の中には敵は無くなり、愛のみがあるのです。 
そのような言葉はいわば休戦条約を結んだ人のことばで、労を取ってくれた人にありがとうと感謝の言葉が出ます。その愛の源である目に見えない神に対して、たとえそのとき神という言葉を知らなくても、ある清きものに対してこのような安らぎはあなたから賜ったものです、と思うのです。そのとき人の目に神が見えて来るのです。神があるならこの方が神である。と分かるのです。そしてこのようになったのは神の恵みによるという賛美が口をついて出て来るのです。苦しかった過去のあのことも「これによって神の栄光が顕われるためである」と言われた神のみことばに対して「その通りでした」と限りない感謝をもって言うのです。「これによって神の栄光が顕れる」というまだ解決しない時に与えられたみことばをもういっぺん振り返ってみるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28~30)というみことばが成就するのです。つけ加えて思い出すみことばは、人間にはできないか、という問題です。人にはできる、と驚くべきみことばが書かれています。「わたしを信じる者は、わたしの行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(ヨハネ14章12)ここをお見落としのないように、と言いたいのです。「もっと大きな業ができる」とていねいなみことばが加えられ、励ましてくださいます。主イエスさまより大きいことができる。遠いかなたのみことばでなく現実のみことばであります。ここで定義があります。信じるもの、信じるとは「私のいましめを守るもの」 
主の最も大きいいましめは、私があなたを愛したように、(ゆるしたように)あなたもあなたに接触する人を、かかわりある人を愛しなさい、ゆるしなさい。
「私があなたをゆるしたように」「私はゆるさないがあなたはゆるすんだよ」 と言わないで。私があなたをゆるしたようにとは主のいましめであり、教育であります。主からゆるされたという確信のない者はその言葉が宙に浮いてしまいます。人の悪口を言う人は内心に責められる物を持っています。責める人はかわいそうな情況にある、人と神から責められているかわいそうな人、だから人の悪口を言います。それによってその人が責められているということが分かります。ゆるす、ということばは神からゆるされた人も、お母さんからゆるされた人も同じです。「すべての愛は神より出ず」とあります。間違いないようにと念をおしてあるのです。
 親子がカウンセリングに来た場合、両方が責めあっています。「ゆるさない」どっちもどっちで攻防戦を展開しています。家庭内暴力は防御が攻撃に転じたものです。子どもに力がついてくるとそういうものを持ってカウンセラーのところに現れてきます。お母さんは子どもの悪口ばかり言っていて、どうしてそうなったか気がつきません。どっちが先かというと親のほうが戦闘を開始したがります。子どもが攻撃に転ずるのは親が訓練して攻撃力を仕込んでいったのです。カウンセラーが「子どもがこんなになったのは親のしつけが悪いからだ」と言ったとします。すると親はひたすら防御しようとします。腹がたってくる。カウンセラーはそんなことを言いません。にせカウンセラー、カウンセラーの名を呼称しているだけです。
カウンセリングをするようになって40年。真剣に一生懸命やるようになって、それで私のカンウセリングができるのです。本当のカウンセリングを学ぶのに、今日一日だけで私のカウンセリングに達することができます。道がきちっと分かっている人に聞けば早く目的地に到達します。40年もかかる必要はありません。横道に入らず早く分かります。40年近く前、戦後に学校教育の立場にあったのを捨ててカウンセラーとして転換しました。管理職、講壇を捨てて飛び込みました。かわいそうな子を救おう。派手でない、人を指揮するのではない、命令しない、自分が一人で勝負する。それがカウンセリングの仕事です。一見華やかに見える校長の職から一大決心を持って選んだのです。その時に名古屋大学教授、精神科医堀要先生と一緒に書いたのが『十字路に立つ子ら』です。駆け出し時代に書いたものです。堀先生が伴奏をつけるから書くようにといわれました。手探りでこわごわやったカウンセリングでした。〝ノンディレクティブ・カウンセリング″アメリカのロジャースの方法が入りかけていた時です。
クライアントと対話するとき「命令形を使うな」ということ。「お母さんに叱ってはいけない」とか「指図するな」とか画期的な理論でありました。日本の教育界に普及したという功績はあります。理論的に整然と書かれたその頭の良さに驚きました。ロジャースの方法を突き抜けた、それが聖書のみことばに基づく理論です。それに基づくカウンセリング。カウンセリングを一生懸命勉強するほど聖書に打たれ、イエスは神の子であるとの確信が強まりました。パウロは「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる」(Ⅰコリント1章20)と言いました。そのことばが私の心に迫ります。私が学んだ近道をあなた方に教えようと思うのです。私は遠廻りをしました。皆さん方は二度と遠廻りをしないように。当時ベストセラーに近く良く売れました。京都大学文学部は心理学の日本のピークですが、そこの先生が絶賛しました。京大挙げて絶賛しました。坂西志保氏が朝日新聞に書きました。
〝いろいろな学説があります。果たしてそうでしょうか、そういう人に読んでもらうために伊藤先生が書かれました。それを読んだら目が覚めるでしょう″と。その書物を今見ると考えかたに欠陥があります。その時には精一杯でした。劣等感、優越感があの本には出てきます。精神分析派のアドラーが言った大事な論で、私はよく読みました。ところが間違っているということが分かってきました。ある意味での功績はあったが大事なところに来ると取り入れることができません。それでは救われない、行き詰まるという思いです。

  登校拒否の、精神病ではないかと思われた子どもが一瞬に治った。堀先生も驚き、目を見張りました。そこでだんだん分かったことは聖書は真理だということです。イエスさまは神様だということです。聖書の真理は人間の限界を越えている。それが分かりました。その次に私は自信を持ってきました。日本のピークにある方から激賞されました。たまたま国連の顧問のキャロルという方が学会の指導をなさった。そこである学者から世界的レベルの学者と褒められました。大きく新聞にも取り上げられました。英訳され全米の学者に紹介されました。その次に書いた本が『子をめぐる愛憎』です。題に抵抗がありましたが堀先生からの勧めでした。メニンジャーの「人間の愛憎」という本からヒントを得てそう言われたのではないかと思います。その本が一番有名でしたが、出版社と手持ちに一冊あるだけです。『中央児童福祉審議会委員長文化財推薦』法律に基づいて推薦された私の本の中で一番有名になりました。子育てのことを書きました。教育の大きな事例、一人のかわいそうな女の子のことを書きました。長編を書きました。そこから40年、その時期を振り返るとやっぱりはっきり分かっていなかったところがあります。子どもがそうなるのはお母さんが悪いと書いたところがあり未熟でした。お母さんを裁いたのです。そこに気付き、そこから今の理論が確立したのです。

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