2015年12月23日水曜日

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》講習会   (1989年3月3日)

カウンセラー養成講座 講習会   (1989年3月3日)

 「 子供たちに繰り返し教え・・・(申命記6章7)」「父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。(コロサイ3章21)」「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。(エフェソ6章4)」 この個所は聖書における子育てが体系的に述べられた所です。別の言い方をすれば子どもを愛して育てなさい。子どもを愛して育てる時に子どもは怒らない、腹を立てない。一般的に肯定されている言葉ですが解釈においていろいろ分かれます。愛することの概念をとらえることが大事です。愛するとはそのものの存在を肯定することです。存在を肯定するとは存在を喜ぶ、嬉しく思うこと「 あなたが居るだけで、顔を見るだけで嬉しくなる」と言うのは愛の表現です。「 あなたが勉強をしっかりすれば嬉しいのだけれど」というのは条件が満たされれば嬉しいということで、条件をつけては愛していないことになります。
  「あなたの顔を見ると段々腹がたってくる」これでは子どもに私の愛情は無いんだよ、と表現していることになります。お母さんは愛してくれないんだと思わせます。「子どもを愛して育てなくてはいけないと分かりつつ愛するとはなかなか難しいことですね」と言う人がいます。「あなたと話していると話がかみ合わない。だから話したくなくなる」と言うとき私はあなたを愛していないという宣告を婉曲に言っていることです。 子どもを愛しているかどうか自分の現状がわかる出発点です。愛しているようなつもりでいるが子どもに聞くと分かります。 中三の女の子が「たらちねの ははのことばのうるさきに 口はわざわいのもと しゃべるなばばあ」と歌を作りました。これはお母さんの存在を喜ばない。愛情を持っていないよと、親が愛を与えてくれないからお互いさまだよと、いうことを言っています。真理をうたっています。互いに愛のある関係でないですよということば、こういうことで悩んでいる人がたくさんいます。 子どもを怒らせています。 愛でない育て方をしています。そういうふうにならないようにしなさいとエフェソ人への手紙に書いてあります。この女の子は母親の言うことをうるさいと感じています。母親は教育するつもりで言っているのかもしれません。ところが子どもはうるさいと感じる。 
「子どもをほっておいた方がよいでしょうか?」という質問が絶えず出てきます。「どうしたらよいでしょうか?」教えるのが良いのです。注意と教えるとは 表現が違います。子育てで注意する言い方と教える言い方の違いが分かると楽になります。この違いが難しい。教える言い方とは、因果関係を、或いは現状の認識を教えます。知らずに気が付かずにいるから教えるのです。現状を認識させるのです。「今何時ですよ」これは教えています。「今起きないと遅刻しますよ、間に合いませんよ」因果関係を教えました。「夜遅く帰ると危ないことが起こりますよ」教えることばです。「明日は雨になると天気予報が言っていますよ、傘を持って行かなくては濡れますよ」因果関係を教えました。「勉強をしてからテレビを見ると楽ですよ」と教えます。「だから早く勉強しなさい」と言うと叱ること、注意したことになります。教えた時にはまず「うるさい」とは言いません。「分かった、分かった」と言いますが怒らない。同じことを何度も言うと前の事を思い出して腹が立つ。感情転移です。命令形で言うことは罰を与えていることです。罰を与えられれば腹が立つ。罰は相手の自由を制限することです。命令形で言うのは罰の本質です。まだやらないうちに命令する。命令形の本質はいくら「ございます」言葉で言ってもだめです。注意や叱る事は皆命令形です。
  集団に対して言うときは命令でなく教える事になります。一般的に言うときも裁きでなくなる。それが面白いところです。だから聖書の中に命令形が出て来る時、裁いているのでなく教えていることになるのです。多少裁くにおいがするかもしれないけれど、大勢に対して言われるから分散し、多数の人に言われた時教えることになると理解することができます。今から20年前先生方の研修で、命令形はいけないと言ったとき先生方は困ってしまいました。抵抗を感じました。その時は勉強不足でよく答えられませんでした。あれでは先生方は困るな、救いがないなと後悔しました。
先生はいつも裁く言い方をしているので、家でもその口調で話します。先生とか保母さんの子どもの親がよく相談に来ます。学校と家庭を混同して命令系のやりかたをするからです。個人に対するとき命令形はいけません。立派な先生が間違えます。子どもが怒ったら自分のやりかたがおかしいのだと反省する必要があります。怒らせる環境があるから怒るので、そういう環境がなければ怒りません。怒る子どもは全部環境が悪いというと納得いかない場合もあります。それは相手のしていることに行動の解釈を誤解して、怒る場合があるからです。誤った認識をする。怒られている人に落ち度があるのではなく誤解して怒っているのです。その場合には自分が勝手に怒っているのです。そこのところでおかしくなっている事例もあります。誤解を解いてやると謝ることがあります。環境に問題のあることのほうが多いのです。どっちに原因があるかを見分けてアドバイスをします。 
親が反省しても子どもが昔の行動を改めない場合があります。それは親が変わっているという認識が子どもに無いからです。解決に時間がかかることがあります。親は変わったが子どもの認識がずれて時間がかかるのです。認識したときに子どもがガラッと変わります。本に挟んで封筒に入れてお金をあげたとする。その子が本を読まないで、一年経って開けたという例があります。一年のずれがある。認識にずれがないようにする工夫がいります。何かで子どもに表現し、伝えないと認識は変わりません。工夫が足りない場合は大分ずれてきます。どういうふうにしたら愛が伝わるか。愛ということだと分からなくなるので「相手の存在を喜ぶ」「相手のして欲しいことをする」「ニーズを満たす」。愛とは自分の子どもの顔を見るだけで嬉しい。そばにいてくれるだけで嬉しい。それが愛です。愛には条件つきはありません。愛することとは何かをしっかりととらえる。それをクライエントにはっきり教える事がカウンセラーの第一課です。愛そのものが何か、はっきり捕らえていないと曖昧になってしまいます。
  小学校二年の女の子が、名古屋から駅の改札を抜け無賃で京都のおばあちゃんのところまで家出をくり返した例です。そのお母さんに「お母さんは可愛がっていますか?」と聞きました。「いいえ、親からそんなことを言ってはおかしいのですけれど、私はこの子を愛する気になれません。いつか私の具合が悪くて寝ていて、ごはんの支度をしてちょうだいと頼んだとき助けてくれました。その時隣の人が、あなたの子がこう言ったよ、家のお母さんは怠け者で自分は寝ていて私にご飯を炊けと言うのよ。それから腹が立って憎らしくなりました」。もうゆるせない。その嫌いな隣の人にそんなことを言って。隣の人と家の子は気が合うのかしら。それがしこりになり、お母さんはその子をゆるせないと憎らしくなり、根に持ち、注意ばかりするようになりました。子どもはそれを感じてこんなところには住めないと思いました。それをカウンセリングする場合どうするか。子どもはお母さんが寝ていて「支度をして」、と言ったとき自分はぬくぬくと寝ていると思うと腹が立った。「頭が痛かったから子どもにそんな支度をさせました」「お母さんは頭が痛い、とひとこと言えば誤解しなかったのです。ひとこと足りなかったから」それを聞いてお母さんは初めて泣きました。子どもが誤解したと分かったとき謝まりました。そのケースは解決しました。
ひとこと多いとは裁く言葉が多い。ひとこと足りなくてもおかしくなります。お母さんは子どもに小遣いをやりながら「もうこれでやらないよ。勉強もせずにお金ばかり使って」。気持ちよく与えるのが愛です。「無駄遣いしてはだめよ」と言うのが言葉の無駄遣い。カウンセラーは本人が気がつかない点を教えていきます。治療と同時に教育の仕方を教えるという知識を身につけることが必要になってきます。クライアントが相談に来たとき、「それは間違っていますよ」と言う言葉はいけません。「叱る時はうんと叱る。褒める時はうんと褒める」と言ったとする。「それは間違っていると思いますよ」と言う。裁いたのではなく教えたのです。命令形で言ったり「どうして・・・しないの?」ということは裁きです。因果関係を教えると自分の行動を反省します。抽象的に「それは親が悪い」と言うと責められるだけです。親をゆるして教えて行く。子どもをゆるして教えて行くと納得していきます。
  「愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ・・・。これらすべてに加えて愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ2章2、3章14)毎日カウンセリングを続け、40年かかってやっとほんのわずか進歩しました。ほんのわずかがなかなか進歩しないのです。胸突き八丁まではすーっと来る。裾野が長いけれど少しの努力で『十字路に立つ子ら』まで来ました。それから40年たちました。道案内をしてくれる人があるとそんなにかかりません。40年を1ヶ月か2ヶ月で教える使命があると感じています。一番近い道を皆さんに話しているつもりです。

《午後のお話し》
  理論的な、大学で臨床心理学を話すようなことを考えて来ました。国立や私立大学で講義をして来て最近まとまったことを、今朝の1時から3時までかかって準備しました。その中での大事なことを話します。
カウンセリングとは、人間関係の問題を持って悩んでいる人に、精神的な問題、恨まれている、憎らしい、許せない、現実にはできない「ならぬが堪忍、するが堪忍」を、それができるように助けて上げることです。できない人ができるようになる。責任をクライアントに押し付けてはいけません。決定的に責任が持てるのは全能の神のみです。聖書には「あなたにも同じようにできる」という励ましが書いてあります。それができる人が信仰の厚い人であるとあります。「疲れたもの、重荷を負うものを休ませて上げよう」「私を信じる者は私のすることができる」と書いてあります。「かつそれよりも大きいことをすることができる」イエス様と同じことが出来るのか、それよりも上ができるとある。励ましだろうと割引をします。実際に同じようなことができます。従順な信仰の人のことだと近ごろ思うようになりました。
信ずる者とは神様、神様、とお祈りする人のことでしょうか、そうでないと書いてあります。私のいましめを守る者が信ずる者、キリストがこうしてごらん、とおっしゃっているのだからそのようにやろうと思う人が信仰の厚い人と定義してあります。皆に聞こえるように祈ってはいけません。と書いてあります。いましめの中で一番大事なことは、「私があなたを愛したようにあなたの隣り人を愛しなさい」このいましめを守る人が信仰の厚い人と定義してあります。非常な悩みを持って誰かの助けを求めている人、その求めが自分に聞こえたり、目で見えた人、現実の私たちの生活の中でかかわりのあるかわいそうな人、悩んでいる人、その人が隣人です。出会いの中でかわいそうな人に会う。良きサマリヤ人の譬えにあります。それを私は命じているとキリストがおっしゃいました。求めていない人に伝道するのが愛でしょうか。求めていない人に押しかけて行く、その人はありがた迷惑だと思います。私のいましめを守る者には奇跡ができる力を与えよう、それよりも大きなことができる。と励ましてくださいました。私はその経験をしばしばするようになりました。自殺をしようとした人が「助けて」と来ました。その人は生まれ変わりました。切に求めた時には人間も動く、山も動くと聖書にあります。そういうようなときにイエスのなさったような奇跡が起きてきます。みことばが誇張でないと思えるのです。そうは書いてあるけれど、と思うことが不信仰なのです。信じる者には誰にでもできる。 
あなたが地上でゆるすことは、天においてもゆるしますよ(ヨハネ20章23)と書いてあります。盗み常習の子でもゆるしてやる。その時その子は喜ぶのです。信仰体験と同じです。「私を信じる者には平安を与える」とあります。平安とは、ニコニコ顔になる。こうなりたいと思った顔になります。自分の都合の良いところだけを拾い読みするのはいけません。あなたが地においてゆるすと同時に、天の父もゆるされる。信仰あるカウンセラーにゆるされた時、同じ体験をするのです。その人が神に出会ったような体験をします。そうするとその人は、「まるであなたは神様みたいな方だ」、と言われます。イエス様と同じことをするからです。イエス様ではないか、と思うようなことができるのです。昔、聖書を読んだとき「心の清い者は幸である。神を見るから」とのみことばを思想、哲学のように考え、長い間解けませんでした。心の清い者とはどんなことか。人間は皆罪人です。罪人でない人はいない。バウロは悪い人だったに違いない。そんな悪い人を神はとらえた。お前のやっていることは間違っているよ、と全部ゆるされたのです。罪人のかしらとは、パウロが謙遜して言ったのではないと思うのです。ゆるされると清くなる。すると神様が見えるようになります。ゆるされない人は神が見えません。理想論が書いてあると昔は思っていました。現実論です。ゆるされれば清いと書いてあります。神の選びは完全です。みことばが分かりました。子どもでも乱暴な子どもでも、その人をゆるすと清くなってきます。ここがカウンセリング理論になってきます。子どもをゆるしてやると心が清くなり、行動が変わって来る。新しく生まれたような行動の変化が起きてきます。本当に変わります。「不思議ですね」と皆が言います。パウロは求めたのではないのに神に捕えられてゆるされました。努力して求めた人より感謝が大きい。永遠を見通す全知全能の 神様が選んでくださったのだという喜びが生じます。そうなるのが一番好ましいことです。「神様を信じなさい」と言葉で言っても分かりません。「目をつぶって祈りなさい」違います。愛を経験したときに現実に愛なる神にお目にかかる。それからはもう疑いもなくなります。説明しようと思ってもできない、そういう愛のお方に出会った、そういうお方がいつも側に居て守ってくださる。それが分かった時に平安になるのです。永遠に。
あのときの失敗があったからすべてのことが分かって益となった。あのみことばが感謝になる。明るくなる。輝く。勇気が出てくる。瞬間に子どもが直ってしまう。「すべての罪より我らを清む」借金を返さなくてもよい。それを信じる人が信仰の厚い人です。何もしないのに無条件でゆるしてくれる、そんなうまい話はこの世にありません。人間にはそんな愛はありません。神の愛のみです。その神を信じて愛を体験するとあなたにもそれが出来るようになります。私があなたを愛するように、あなたも隣人を愛しなさい。私があなたをゆるすように、あなたもゆるしなさい。それが信仰の厚い人だという定義です。その外に信仰はありません。奥さんが信仰に熱心で子どもがおかしくなった例があります。「主人が教会に行かないから」と責める。しかし聖書には妻が信仰すればその信仰によって夫が清められる、と書いてあります。主人はそれを見て「ああ楽になった」と言いました。ゆるされました。罰する神だと思っていたのです。聖書の読み方を間違えているのです。「あなたが教会に行かないから子どもが直らないのだ」と言われてきたのです。
イエス様が十字架にかかられたとき「彼らは自分がしていることが分からないのです」無知という理由で人類をゆるされました。人間は新しく作りかえられる。愛は人間を新しく創造する。愛の外に神は無い。愛は人間を作りかえていきます。頭の悪い子がよい子になる。愛すると良くなる。神様の愛が解ったとき途端に頭が良くなる。神様の恵みによるのです。
  人を軽蔑してはいけないとみことばにあります。その引き合いに自分を誇ってはいけない。登校拒否、留年、私も同じようなことをやってきたなと思います。それなのに今日の私のようになった。二回も落第しています。そういう中から立ち直っています。それがあるから落第生の気持ち、親の気持ちがわかるのです。私のことを教育界に彗星のように現れたと言われました。今までに一生懸命に信仰したことはないのです。行人坂教会に行ったリ、行かない時もありました。みことばが直接神様の声のように聞こえて来ます。そのときにスッと響いて来る。そういう信仰です。聖書のみことばは解らないことが一杯あります。解った言葉だけで良い。たくさん知らなくても。ひとことでも良い。物知りにならなくても良い。だんだん解って来て失敗してうまくいかなかったことも全てがプラスになりました。
登校拒否がどんなに辛いことか人は理解してくれません。召されたもの、神様が目をつけてくださった者には全てのこと相働いて益としてくださる。ここに来た人は神様が目をつけてくださった人です。愛することのできる力を与えてくださいます。「神様、愛することができません。力を与えてください」と祈るときだんだん開けてきます。簡単に教えられるようになります。叱らなくてはいけないのではないか、何か言わねばいけないのではないか、そういう理論に頭が洗脳されています。それが違うという理論を立てました。「子どもを甘やかしてはだめだ」とたくさんの人が言います。決めたように皆が言います。そうではないことを理論的にも実際的にも証明できます。叱らずにゆるすということは愛。神は創造主。無から有を創るお方。愛の中に創造主の力が入るから。創造。(CREATION)創造主の力は人間には解かりません。心をそういうふうに変えるのは創造主の力です。愛を正確に捕らえることが大切です。

叱るのも愛、罰するのも愛だと、愛でないものも愛の中に入れてしまいます。愛の概念の乱れです。中身なしで愛を使って議論しています。褒めること、ありがとうということも愛です。叱るは愛の反対です。十字架の教えはゆるす愛です。神の一人子の犠牲を払ってゆるすことは愛です。実際生活の中ではゆるせない事が多い。ゆるす愛は難しいが私はできる、それは自分がゆるされたからです。みことばとカウンセリングの関係で語られるのはあまりないことです。

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