2015年12月23日水曜日

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》(第2次講座 第1回) 1989年6月29日

カウンセリングは愛に出発し愛に終わるもので、愛なくしての人生カウンセリングで素晴らしい栄光を見ることは決してありません。どうしたら解決して共に喜ぶ結果になるものか、その知恵を学ぼうとするのがこの講座です。知恵を理論とも、真理とも、法則とも言います。行動が起きる場合、どういう法則によって起きているか基礎理論から入って行きましょう。
その人の性質から行動が起きてくると考えたことがありました。たち(性質)だから、ぐずのたちだから、勉強嫌いのたちだから勉強をしない、といいます。そういったときその子の性質ではないかと考えます。遺伝ではないかと考えます。親もよく盗んだ。だからあそこの子も盗むのだという。筋を引いたのではないか、隔世遺伝ではないかと、念には念のいった考え方です。身体的な欠陥についても人は遺伝ではないかと考えます。精神的な病気は殊にそう考えます。イエス様はどう答えられたか、人間が考えやすい典型的な場面で、生まれつき目の見えない人を、呪われて生まれたのではないか、罪を背負って生まれたのではないか。ばちが当たって生まれたのではないかと考える人に「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ九章3)と答えられました。みことばによって盲人は裁かれている暗い気持ちからゆるされて解放されました。これはゆるしのことばであります。そのしるしにイエスはその盲人を見えるようになさいました。これが神の栄光なのです。栄光とは素晴らしい場面です。それによってばちが当たったのではないか、という考えから解放されました。わたしがこの世に来たのは裁くためではない、罰をするために来たのではない。これによってこの世をゆるすために来たのだとおっしゃいました。
  人はゆるされるときに楽になります。「すべて疲れているもの、すなわち悩んでいる人、重い荷物を負っている人は私のところに来なさい。私があなたを休ませて上げよう。」私を信じる者は私のすることができる。かつ、もっと大きいことができる」と励まされました。私はこの言葉が大好きです、自分にいただいた言葉のような気がします。おそらく励ましの言葉でしょう。カウンセリングを受けた人が「ああ本当に楽になった」「すっきりした」「肩の荷が取れた」と輝くような美しい顔をして話す。「鏡を見たときこんな顔になってみたいと思う顔になりました」と言う。神の栄光がそこに現れています。何度も繰り返された体験をしています。たまに起きることではありません。「私のすることが出来る」誇張ではないと思うのです。私を信じる者とは「神様、神様」と祈る人ではありません。間違えないようにとあります。「私のいましめを守る者」と聖書に定義づけてあります。最も大事ないましめは、「私があなたを愛したようにあなたもあなたの隣人を愛しなさい。これより大きいいましめはありません」。イエス様が暗闇の中から救ってくださった喜びから、いましめを守りたい。それをする人を信仰の厚い人だという。イエス様が救ってくださった、だから私はそれをする。そこに信仰があるのです。信仰と希望と愛の中で一番大切なものは愛です。お間違えのないように。愛の無い者は神を知りません。なぜなら「神は愛なり」と書いてあります。
  今日集まった方は、知ると知らずをとわず、神様が選んでここにお集めになったのです。「あなたが私を選んだのではない。私が選んだ」という言葉によって導かれているのです。偶然来たと思っているかもしれませんが聖書にはそう書いてあります。
私は初めて信仰に導かれた時そのお言葉どおりでした。私は病弱でお先真っ暗であったとき、誤配された手紙の宛名を探して届けました。「師範学校西」と書いてありました。自分の悩みで一杯の時、人のことどころではなかったその時、家を探して手紙を持って行きました。きれいな輝いた人が出て来ました。「有り難う、学生さん。あなたがこの手紙を持って来たのではありませんよ。神様が選んでこの手紙を持ってこさせたのですよ」。きれいな人の言うことに反撥しませんでした。すすめられて上がりました。ご主人が出て来られて「学生さん、聖書を読んだことがありますか?」。聖書は読まなかったがイエスは大変な聖者だとは知っていました。西田幾多郎の本を読みました。『禅の研究』、その本の中に「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではない、という境地に達すれば宗教の極致である」と書いてありました。そういうことを深く分かりたい気持ちが少しはありました。「私がその極致になった」とは書いてありません。理想として見ていたのではないでしょうか。
この人はどこの学校を出た人かしらん。単純な人ではないか、「神戸高等商業です」。ああいう風に信じられたら良いなあと思いました。清潔で清らか、謹厳な感じでした。「日曜ごとに数名で聖書を読んでいるから来てはどうですか?」と誘われました。その人の先生、柘植不知人先生に一緒に導かれました。そこの集会に入って行ったときから神様の臨在にふれました。合宿で救い主の神が分かりました。神様が私を導くために手紙を誤配させた。神様が選んで下さったのだという確信ができました。その考えは一度もゆらいだことがありません。永遠を見通す神ですから。限りなくゆるす神、愛とはゆるす神ということです。愛の外に神はない。愛とはゆるすということ。そういう意味です。傷のある者、罪のある者を選ばれてゆるされました。世の与えるようなものではない平安を与える。聖書を知らなくてもそういう人を神はお選びになられました。支えて分からせるために、悩んでいる人を救うために、子どもが暴走し登校せず、どういう悩みでも、あなたが愛されたように、あなたもかかわりのある人を救って上げなさい。と語られた。そういう方の相談にのるとき、重荷を取って上げず「信じなくてはいけません、夜、晝、祈らなくてはいけません」そうことは言わないように。
  知恵で学ぶのがこの養成講座です。知恵は理論、法則、真理。現代の科学で表現する知恵で説明していきたいと思います。みことばを科学の方程式で説明する場面が出てきます。みことばの読み方を間違えている場合があります。みことばを裏付ける法則があります。みことばの意味を誤解して読んではいけません。   
行動はどういう法則によって起きてくるか。
      行動=関数(人・環境)      クルツ・レビンの行動の法則
      B=F(P・E)            K・Lewin
  新心理学といいます。凡ての行動は人と環境との関数によります。厳密に言うと数学の法則に似ていますが、数学の法則を比喩的に応用しています。行動=登校拒否、盗み、その子が変われば行動も消えて行きます。その子は前と同じでも周りの環境としてのお父さんお母さん、学校の先生、友達が変わってその子が変わった例がいくらでもあります。どういうカウンセリングをするか、楽な、経済的な方法を選びます。その子を変えたほうが手軽です。人間の知恵は全能でないから。環境とはやさしく言えば周り、自然物理的環境の中に人は住んでいます。幽霊でない限りその環境からのがれることはできません。
部屋の温度が上がるだけで行動が変化してきます。その人の心掛けのせいではありません。道徳的価値判断は人間の環境に関係があります。社会的環境、こんな子になったのは環境が悪いのです、という場合自然的環境ではありません。
人間関係では、生まれた時から喜んでくれるお母さんの環境があります。生まれた瞬間大嫌いなお姑さんにそっくりだ、というその子の社会的環境は悪かったことになります。生まれたときは難産であったか、嬉しかったか、社会的環境を調べます。生まれてきて喜ばれなかったかどうか、恵まれない環境に出産と同時に育った、と書きます。存在を喜ぶことを愛といいます。愛でない環境に出産と同時に育ち始めたと書きます。聞くべき環境とはお父さんも、おじいさんおばあさんも兄弟もみな環境を構成しています。トラブルは無いか、寛容な愛の環境はどうか、子どもが生まれたときお兄ちゃんが居たか、長男か、次男かでも環境は変化します。今まで怒らなかったお母さんが怒るようになった。兄弟が生まれた。愛情の環境か、そうでないか環境に目をつけていきます。その子の生育史、生活史を調べます。愛されたか愛されなかったか。幼稚園では、中学では、具体的にその子から聞いたり親から聞くと親と子に食い違いが出てきます。お母さんはそれを聞いてそんなことがあったかとびっくりします。その子の行動に影響するのはその子の認識した環境なのです。「小さい時からおもちゃに埋まって育てました」「充分やってきました」。子どもに聞くと「お母さんはかわいがってくれない」と食い違いが生じます。それを子どもの心理学的環境といいます。お母さんがたは否定します。お母さんはかわいがっているつもりなのです。子どもの言うほうが本当です。お母さんが愛と愛でないものを勘違いしているのです。愛は子どもについて勘違いをしません。心理学的環境で行動が起きて来るのです。両親があるとか無いとか、金持ちとか貧乏とか関係ありません。お父さんがインテリかそうでないかも関係ありません。お父さんがかわいがってくれているかどうか、子どもから見たものが大切なのです。心理学的認識。愛でないものから愛に変わると子どもが変わります。三分変わると三分、十分変わると十分変わる。関数だからです。

《午後の講義》
 ◎人間の環境
家族構成、学歴、職業、お父さんやお母さんがどういう考え方でやって来たか。それを聞くのが環境を調べることです。裕福な大きな家に住んでいるか、ということは環境には関係しません。どういう考え方で子どもを教育しているか、必ず聞きます。「子どもが良くないことをしたときどうしてきましたか?」と質問します。すると、「私はあまりタッチしなかったが家内が過保護でやってきました」と答えが出ます。そこに問題があります。どういうことを過保護といっているかが問題です。過保護の内容について、子どもが何か要求するとそうかそうか、とすぐいうことを聞いて来たか、小遣いをほしがるとすぐ与えて来たか。過保護と甘やかすを、どういう意味で使って来たのか。「甘やかして育てるとはどういうことですか?」「子供の言う通りにやらせてきました」「あまり叱らずにやってきました」「ちょっと叱るのが足りなかったかしら」「叱らねばならない時に叱らなかったからではないか」「ちょっと足りなかったのではないか」「叱るときには叱り褒めるときには褒めて来ました」「どっちが多かったですか?」「この頃褒めることがなくて」そういうのを家庭の社会的環境と言います。叱る、褒める環境が、過程がみな違っています。「あそこの家では叱るときに叱っていたのに立派に育っている。家の子も叱って良いのではないか」「隣の家でもやっているのに。隣の家では褒めるときにはうんと褒めている。家の子は褒めるところが無いから褒められない」。
叱り方があります。注意するような叱り方、叱り方の程度があります。「叱って褒める」と書いてある本があります。それは危険です。叱られると毒ができ、褒めると毒消しになります。例えるとそういうものです。叱っても褒めると、まあまあの子になります。その日の中に褒めます。つまり子どものごきげん取りをするのです。あくる朝まで過ぎると毒が回ってしまいます。叱られるということは罪意識を伴います。褒めることは罪の意識をゆるすことです。そこにゆるしの愛が行われることになります。褒めることはそのものの存在を肯定することになり、存在を喜ぶことになるのです。存在を喜ぶことを愛というのです。「あなたがいるだけでも嬉しい」「あなたの顔を見るだけで腹が立つ」「あんたの顔なんか見たくない」愛が無いことばです。「お母さんは僕なんか家に居ない方がいいんだろう」「そうだよ、勉強もしないで」これはお母さんに愛情がないことを表しています。「そうか家でも出てやろうか。下宿してやろうか」自分の部屋に鍵をかけて、できるだけ親の顔を見ないようにする。程度が分かります。あらゆる存在するものは量と質とにおいて存在するのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20章20)と書いてあります。キリストの弟子たちが愛情をささげています。
  親の子どもに対する態度、叱るか叱らずにゆるすか。それによって家庭の環境が変わります。叱った方がよく勉強するような気がする。子どもに言わせると環境が悪いと言います。「僕の家はやる気になれない。勉強する気になれない」。態度を分けるとゆるす態度と責める態度の二つに分かれます。叱るけれどその日のうちに褒めることを考える。褒めることが無くても作れば良いのです。暴走に行く前にポストに手紙を入れさせて「めんどうなことをよくやってくれた」と褒めました。子どもはそんなお母さんを今まで見たことがありません。お母さんが考えたことでした。自分の知恵で作ったのです。真剣になると知恵がでてくるのです。だから値打ちがあります。それですっかり直りました。お礼を言いました。お礼は褒め言葉です。ゆるさなければ心から褒められません。褒めことばはゆるしたことです。その子のすべての罪をゆるしたことです。子どもはゆるされたと思いお母さんの喜ぶことをしました。愛のお返しです。愛には愛のお返し、憎しみには憎しみのお返しがあります。
環境は、責めているかゆるしているか二つに分けることができます。ゆるすのを寛容といいます。寛容という愛。愛の場合は怒りません。平安を与え喜びを与えます。愛であるかどうかは実で分かります。子どもを怒らせてはなりません。愛の場合は子どもが喜びます。怒る時には愛では無いから結果によって分かります。親切とは相手のニーズをみたすこと。ゆるすとそのものの存在を喜ぶから親切が生まれて来ます。私は限りなくあなたを愛します。望むもの、ほしいものを充たしてあげる親切。ゆるしているからそのしるしにあなたのほしいものをあげますよ。ゆるしが先です。ゆるして存在を喜ぶ。そこに親切という愛が生まれてきます。法則上の説明です。責めるかゆるすか、それによって環境が変わってきます。逆になると中から噴き出て来る。ゆるさずに叱るということは軽業師にしかできません。口は押さえて目付で叱っているようなものです。

  カウンセラーの段階が出てきます。裁いて教えてはいけない言い方があります。どこが違うか分かる人は頭が良い人です。はっきりしていないところのある人は60点くらいしかあげられません。おいしいまんじゅうもまずいまんじゅうも分からないのです。最初に「あなたは叩くからだめですよ。これから直していけば良いのです、明日から直しましょう」と、クライアントは悩める人、重い荷物をしょって疲れている人です。それを楽にして上げるのです。とっちめて言ってはいけません。環境を変えるために「あなたは叩いてきましたか?」「言い聞かせたくらいでは聞かないので叩きました」「なおりましたか?」「よけい悪くなりました」。叱る言い方、注意をする言い方をしないことです。「あなたはそうやってきたからこうなったんですよ」と言うと責められます。私の書いた本『十字路に立つ子ら』にはそう書きました。まだ未熟でした。叱る言い方と教える言い方の違いをどういうふうに教えるか、「子どもを叱って育てると子どもは反抗しますよ、もっとひどい子になりますよ」と教えるのです。これは教える言い方です。「自分の責任だと思うと悲しくなって眠れません」。楽にして上げることを目安に対応を進めます。「叱っても子どもはいうことを聞かないんですよ、どこの子もそうですよ」と言っても良いし「伊藤先生の本に書いてありますよ」「聖書にお手本が書いてありますよ」 といってもよい。人間が裁くのではなく真理が裁くことになります。真理に裁かれて反省します。真理に裁かれる時は怒りません。「そういうものですよ、そう書いてありますよ」とこの言い方が大事なのです。命令形は裁かれます。「時間が来ました。止めてください」 は50点。教えることは乱暴に言ってもだいじょうぶです。反応を見ると分かります。

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