2015年12月23日水曜日

伊藤重平先生《カウンセラー養成講座》第一期生講習会   (1989年4月27日)

感情転移とは、外形上似た者、関係あるものに感情が移って行くことです。ある人に向けられた感情が外形上似た者に移って行くという定義です。自然に自分を守る防衛機制の一つです。自分に危険なものを避ける。今までの経験から判断していき、丸顔の人にひどい目にあったらそれに似た人を避ける、パッパッと判断します。嫌いになるというのも防衛機制の一つです。感情転移は好きだという感情も移っていきます。労力を使わずにすむ便利な心の動きです。なんとなく好き、というのも感情転移です。不合理な現象です。生活の中で邪魔をすることが多く起きます。
  「今度の先生は良い先生だ、お母さんの好きな先生だ」 「それなら行かない」お母さんが信頼している人なら行かない。お母さんが嫌いな人なら行く。お母さんが変わって子どもとの関係が良くなれば子どもはついて来ます。無理してその子どもの家を訪ねたら子どもは逃げてしまうか、居ても出て来ません。お母さんとカウンセラーがグルになっていると思うのです。勉強しない、テレビばかり見る、夜、昼、間違えている、小言を言いたくなると良い関係になりません。感情転移で、お母さんに向けられた感情をカウンセラーに向けてきます。良い先生だと、言っても子どもは信用しません。カウンセラーのところへ来ることに成功したら、まず来たことを褒め、カウンセラーも嬉しい顔をします。子どもを一生懸命褒めます。子どもを褒める材料を考えます。嘘のことを褒めても納得しません。感情転移を先に取り除きます。「良く来たね」と言うと、「お母さんはこの頃は前と違って僕に嫌なことを言わない。言うことを聞かなければ義理が悪いでしょ」と理屈を言う。一度感情が転移しても続くわけではありません。食べ物でも一度あたるともう食べたくない。インテリでも感情転移をします。感情だから薄らいではきます。自分を守る機制で自然に備わっているのです。
ある会社の社長の家で、子どもが勉強をせず、悪いグループに入って、高校になんか行ってやるものかと親を憎み、復讐している例がありました。約束の時間になっても相談に来ません。「強制的に連れて行こうとして時間を取っているのではないか? それで 電話を掛けるひまも無いのではないか?」というのが善意の解釈です。「そういう子を育てる親だから時間を守らない、出来損ないが出来るわけだ」悪意の解釈です。一つの行動に対して行動の解釈をするとき、「遅刻するのはだらしがないから、真剣味が無いから」 別の解釈は、「用事が出来たから来られないのではないか」「良く入ってきた」 「図々しくはいってきたな」といたわりの解釈と悪意の解釈のどちらかを常にやっています。その解釈の仕方によってその人がどんな人柄かすぐ分かります。
欠点を子どもが言った場合それをゆるしていきます。たとえば「僕は嘘つきだ、今の今まで言っていたことはうそだ」「君は正直だ、本当のことを正直に言ったから」と転換していくのです。「そうか君は嘘ばかり言っていたのか」と言ってはいけません。「正直だね、嘘ばかり言っていたという、それが正直だ。それを正直だと言うのだ」と褒めます。0点の成績を見せた時「よくこんな点を見せるね」と言わず「あなたは正直な子だね、お母さんを信頼してこんな点でもよく見せてくれたね」と同じ行動に対して二つの解釈があります。カウンセリングの基本で気をつけることは、5分~10分話しているうちにフワーッと楽になっていく。相手の言った事を裁いて、とっちめることを一言でも発したらもうおしまいです。口で言わなくても、目で言っても、びっくりした表情でもいけません。
「私は泥棒を毎日やっています。お母さんも知らないけれど」「何を取ったの?」16、7の女の子が「先生はたいしたものです、ほかの先生とは違う。何でも本当のことを話せるところが違う」と言いました。自分の味方だと思いました。親には話せない。カウンセラーはそうでなくてはなりません。子どもの引け目をとっちめてはいけません。心でとっちめたら顔に出ます。心から引け目をゆるしてやります。ゆるせるようになることと相手に上手に伝えることができるようになる、二つ出来る人がカウンセラーになれるのです。どっちが欠けてもいけません。より大事なのはゆるせるようになるほうです。理論を知らなくても、方法を知らなくても、ゆるせるようになるには道が開けてきます。理論とは一つの真理、いわゆる登山口です。神がイエス・キリストの血によってすべてをゆるしてくださった体験。「私が愛したように、ゆるしたようにそのようにあなたもゆるしなさい」。自分が神からゆるされた喜び、限りなくゆるされた喜び。こんなありがたい話はありません。
ゆるすにはゆるす理由がいります。神様ですら理由をつけるため清い御子を地に降し、罰せられ、罪をゆるす理由を作られたのです。その理由で、その打たれた傷で人はゆるされました。罪の女を(ヨハネ8章3~11)人間は皆そういうものだという理由でおゆるしになりました。罪の無い人はいないのだ、という理由で。ゆるされたらどうするか、感謝をしなさい。天と地とそれに満ちるものすべてのものは神のものである。ただ感謝の捧げ物を神はお喜びになります。人間に対しては十字架のあがないのゆるしを与えられましたが、現実は十字架を語らなくても、ゆるされたものがゆるすことができるのです。
  すべての愛は本流の水源地である神より出ます。もしそれが愛ならば。神というものを意識しなくても、それを受けたものは私もゆるされたのだから人もゆるそうという思いになります。「すべての愛は神より出る」 ゆるしの愛を受けると平安があり肩の荷が下ります。愛なる神は私の平安をあなたに与える。世の与えるものではないと語られました。非常な平安、安らぎ。知ると知らざるとにかかわらず、神から出ています。十字架でゆるされました、と言わなくても、ゆるしていけば神のみこころにかないます。事実があれば良いと聖書に書いてあります。愛の深い人はゆるす理由を考えます。理由が出て来ない人は愛の少ない人です。子どもに対して「ごめんなさいと言いなさい。言うまではゆるさない」といつまでもねばるお母さん。ゆるす理由を自分で作る。そうでないと理性が承知しません。叱られた時ごめんと言うと相手がゆるしてくれます。大学の講義でも「ごめんと言いなさい、生活の知恵だ」といいます。子育てを失敗した親は、子どもも引け目を持ち親も恥ずかしい思いをしている。その時にカウンセラーはゆるす理由を考えて、引け目を取り、楽にし、肩の荷を降ろしてあげるのです。

《午後の学び》
  登校拒否は家庭内暴力を伴うのが普通です。学力の遅れを取り戻さなければ、ついて行けないので又登校拒否になります。学力回復をどうして計るか、勉強のさせかたを指導しました。妹はかしこい子。妹に兄の扱いかたを教えました。一年生の子どもです。教えた通りにしたら兄がおとなしくなりました。母親が勉強を教えました。家庭内暴力が治まり、家庭も落ち着いてきました。草野球をやっているうちに友達に「お前学校に行ってないじゃないか」と言われ「そんなら行けばいいだろう、行ってやるよ」というのがきっかけになりました。突然行くのだから梅の枝をもって行きなさい、良い着想で皆に歓迎されました。そしてクラスに溶け込みました。登校拒否が直るのにもいろいろなケースがあります。
埼玉のある中学生の例です。行ってはどう?という暗示を徹底的にかけないようにしました。そんな顔付きをしてもいけません。兄と祖母と母の家庭です。一、二か月位で「お母さん気をつけて仕事に行ってね」、と口をききました。「僕、今日から学校に行くよ」と突然言い出しました。暗い部屋にばかりいた子が一人で出て行き、そのまま行けるようになりました。「もう行ったらどう?」という目付きもいけません。中から力が出てくると抵抗も排除できるのです。基礎学力だけは遅れないようにします。登校拒否の子どもは攻撃的でそれを家族に向けます。先生や友達にはそれを向けない。その憎しみが外に向かうのが校内暴力です。登校拒否は人をゆるせないという性質を持ちます。その子がゆるせるようになると敵意が消えます。怖くなくなるから行けるのです。家庭で荒れなくなるのはゆるせるようになったからです。自分に敵を作っているのです。学力が遅れるから体裁は悪い。憎悪の正体は敵意。外が怖いのです。学校の先生がすぐ叩くから登校拒否になったのではありません。そういう先生はどの子でも叩くのです。登校拒否の子は先生が叩かないと分かると行けるのです。先生に敵意をもっている。敵陣に乗り込んで行く気持ちです。憎悪は誰にでも向かって来ます。カウンセラーにでも向かいます。危険な所へ行くようなものです。登校拒否児のところへカウンセラーは行くものではありません。そういう家庭では夫婦、姑の間にもさばきがあります。ゆるしが無い。そういう構造を持っています。
  ゆるすということは大変なことであります。ゆるした方が良いことは分かっていてもゆるせない。カウンセラーはこれをゆるせるようにしてあげるのです。一発でゆるせるようにならないことも多いのですが。奇跡のようにゆるせるようになることもあります。相当手強い場合でもゆるせるようになります。離婚問題で戻る可能性のないケースが幾組もあります。一回の面接でゆるせるようになるにはどうするか、ゆるせるような理由を教えるのです。理由が分かると自分も悪かったと認めます。ゆるせる理由を発見してあげるのです。「まだ見ない主人の弁解ばかり先生はした。私もなるほどと思えた」理由の発見は、じっと聞いて行動の解釈をこうではないかと訂正していきます。自分の思っていたことがガラガラとくずれます。おまえばかり悪いのではないと両方ゆるせるようになります。登校拒否の子は大体そういう線が強いのです。おばあちゃんとの関係、夫婦の関係が電波のように行き交う。それが解決しないとその子が行けなくなります。老人のほうが悟ったら、解決して直った例があります。敵意、敵ではないのにそれが消えると恐くなくなります。徹底的にゆるすとはそういう目付きさえもしないこと。そうすると以外に早く直ります。九分九厘でもだめで、その子の存在を喜ぶ、まず兄妹が仲良くなります。
憎しみは攻撃的です。そういう親は人を攻撃します。ゆるす家庭にはそういう例は出ません。中途半端はゆるさないのと一緒です。ゆるすとニコニコになり、ゆるすと恐くなくなる。「汝の敵を愛せよ」人間はその真似もできないと思っていましたが、敵をゆるすことは愛することです。雲の上の理想ではありません。現実にそういう例が一杯あります。現実離れの理想ではありません。高い規準を学ぶことができます。それが神のめぐみになってくるのです。

  学校の先生が恐い時、家庭環境が変わると受容できるようになります。カウンセリングマインドなどというそんなレベルのことではありません。放任とゆるしとは違います。ゆるしてから教えます。カウンセリングは親が八分、子どもが二分の割です。カウンセラーが信頼されると早く直ります。イエス様でも信頼しない人は直されませんでした。

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